I love you


よく言われる。
というか言われ続けてきた。
一途なんですね、と。

最初は順平だった。そうしたら皆がそう言うようになった。
直接馨とかかわりのない大学に入っても変わらなかった。
「真田?ああ、アイツにアタックしても無駄だよ、とっくに骨抜きにされてるから」。
それを偶然聞いて、妙な気分になった。

そして環境ががらりと変わった今も、周りの声は変わりなかった。
「意外です、愛妻家だなんて」、と。

俺が特別変わっているとは思わない。だいたいどいつもこいつも人と自分を比べすぎなのだ。
人と比べて少し変わっていると自分はおかしいと思い込んで自信を失くす。
社会人になってわかったのだが、そんな考えが蔓延してるのは、異常とも思える現代人の運動不足から来ているのだろう。
気持ちの持ちようもすべては健康な肉体からだ。それを知らなさすぎる。

といいつつ俺も、日常の忙しさにかまけてまとまったトレーニングができていない。
深刻な問題になる前に、少しでも意識を向けたいと思っている。かといって、違う種類の汗を流す時間まで減らしたくはない。
それはそれで、かなり重要な問題なのだ。

その頃の俺にとって、馨はそばにいて当然の存在だった。
もちろん大切にしている。至らないと思ったことは謝るし(最初に比べてずいぶん成長したと思う)、
感謝の気持ちも伝えている。十分だと思っていた。



よく見れば存在感のある花屋に目が行ったのは偶然だった。
普段は歩くときにキョロキョロなんてしないのだが、コンビニを探していた。そのコンビニの隣にあったのがその花屋だった。
用を済ませ、花屋の方にふと目を向ける。いかにも女性が好きそうな雰囲気の店だ。店先には手作りの看板が立てかけてある。
小さな黒板にチョークで書かれたその文字に一瞬だけ気をひかれる。「1月31日は愛妻の日」。

1月31日で「アイサイ」と読ませるのか。いささか強引じゃないか?11月29日が「いい肉の日」だということなら知っているんだが。
じっと見ているつもりはなかった。けれど店から出てきた店員は、俺に話しかけてきた。
断る理由もないものだから、店の中に連れて行かれても何も言わなかった。要は興味があった。なければとっくに立ち去っている。

若い店員の女性は、俺を見上げてにこにこと笑っている。その視線が下に向けられ、俺の左手をとらえていた。
「奥様に花束を贈られてはいかがですか?」

左手の薬指に光る結婚指輪。商売柄だかはわからないが、しっかり確認されていた。
その日は理由もなく、皮手袋をしていなかった。予想外の指摘に、思わず指輪をはめている手をポケットに入れた。
彼女は表情を変えることなく続ける。

「1月31日は愛妻の日なんですよ。まだ認知度は低いんですけど、ほら、日本人男性って照れ屋でしょう?」
今まさに照れ隠しでポケットに手を入れた俺は、典型的な日本人男性らしい。

「奥様に。いかかでしょうか?」

突然目の前で広げられたパンフレット。彼女は商売上手だ。そう認めずにはいられなかった。



そして1月31日。
2度目となる店に足を運んで、予約しておいた花束を受け取った。先日と同じ、若い店員の女性がいた。

チューリップが一般的ですけど、定番な薔薇もすてきですね。要は気持ちが伝わればいいんですよ。
どの花にするかを決めるとき、彼女の話はあちこちに飛んで決めるのに時間がかかった。

カウンター越しに花束を受け取ると、その重みがなんだか特別なものに思える。
保護用の包装を施してもらっても、鮮やかに咲く花弁は見えているし、こうしたものを持って外を歩くのは抵抗があった。
人生で初めて自意識過剰になった日だった。


暗くなった帰り道を少し小走りで急ぐ。気を遣うものを持って歩くのは疲れる。
そうして自宅のマンションに到着し、鍵を開けて扉を開く。
すると馨が迎えてくれた。鍵を開ける音が聞こえたのだろう。服装を見ると、彼女も帰ってきたばかりのようだった。

「おかえりなさい!」
「・・・ああ」

玄関のドアを半開きにしたまま、中に入れないでいた。片手でドアを支え、もう片手には花束。見えないように外側に隠す。
どうしたものか。いったいどんな顔して、こんなものを差し出せばいいのか。
そもそもチョイスが悪かった。散々選択肢を用意された挙句、勧められたのは薔薇だった。
店員の女性は自信を持ってこう言った。「お客様は赤がよくお似合いですから!」と。
サイズだって間違えた。よりによってこんな大きなもの。手のひらサイズのシンプルなものでよかったじゃないか。
俺が今持っているものは「薔薇の花束」の定番すぎて、なんだか現実味がない。
しかし一本一本が本物で、異様な非日常性をこれでもかというぐらいに醸し出している。

半開きのドアから顔だけを出したまま固まっている俺に、馨は不審な目を向けた。当然だ。
しかしばれるくらいなら自分から言った方がいい。意を決した。

ドアを大きく開けて一歩進む。花束も一緒に。重いドアはゆっくりと閉まり、後ろ手に施錠した。
そんな俺を見て、馨は出しかけた言葉を飲みこんだのがわかった。しばらく沈黙が続いた。お互い動かない。
どうにも馨の顔を見れないが、きっと驚いていることだろう。こんなものを持って帰ってくるなんて、いったい何事だと、思うだろう。

情けないことに緊張していた。耳が熱いのがわかる。「照れる」なんていつ以来だ。それこそ高校生以来だとふと思う。
「あのころ」の懐かしい気持ちが、一気に体の内側に流れ出たような気がした。

馨の顔が隠れるくらい大きな薔薇の花束を、そっと差し出して同時に視線も上げる。
花束越しに見えた馨の顔は、「あのころ」と同じだった。その何とも言えない表情を見て、馨が今の俺と同じ気持ちだということが無意識にわかった。
その瞬間、薔薇にしてよかったと心底思う。鮮やかな赤は、馨の瞳の色によく似ている。

思えば馨はいつも、俺に対してこんな顔をしていた。
驚いたような、嬉しそうな、まるですべて満たされたような大げさな顔を。
俺はそれが好きだった。それは今も変わらない。

花束を受け取るか、俺の胸にしがみつくか。
馨はどちらを優先するか決めかねて、同時にそれを行った。
俺はただ、空いた方の手でそんな馨を抱きしめた。本当なら両手で。しかしできない。贅沢な迷いだった。

馨は気持ちを落ち着けるように大きく息を吐いて、また吸った。
「今日って」
吸い込んだ空気はその一言で使い果たされた。
何と言えばいいのかわからない。俺は取り敢えず口を結んだ。

「結婚記念日は12月だし、私の誕生日は3月だし、ええとあとは」
まるで子供のように指折り数える馨を見て、なんだかこちらが恥ずかしくなってくる。
俺はその手を取ってうやむやにした。
「いいだろ、なんでも・・・これ以上言わせるな」

そうだもう、これ以上は言わせるな。
真っ赤な花束の中にそっと忍ばせてあるメッセージカード。
この時期に花束を買った既婚者の男性へのプレゼントらしい。まったく本当に抜け目ない。

たった一言、なんの飾り気もなくプリントされた「I love you」を――
言葉にするなんて、勘弁してほしい。

いやせめて、今日が終わるころまでには、なんとか言葉に出して、伝えたい。
世界で一番、妻を愛していることを。