メイク
普段はつけないテレビをつけて、クラピカは新聞を、俺はキッチンで料理をしていたときのこと。
サラダ用のトマトを切り終わり、ふとクラピカの方に目をやると、彼女は、化粧品のCMに目を奪われていた。
俺はそれを見逃さなかった。
ここからだと、クラピカの表情は絶妙な角度で見えない。
けど、ピンときた。子供みたいに、ぽかんと口を開けて、かすかに目を輝かせてるんじゃないかって。
しかしなんと声をかけようか。いや、かける必要はないか。
全くと言っていいほど飾り気のない自分の恋人に、不満がないと言えばうそになる。けれどそれでいいと思っていた。
必要最低限の身嗜み以外に、なにもしなくてもきれいでかわいいなんて、同性からしたら嫉妬の対象にしかならない。
俺はそんなクラピカを自慢に思っていたし、そのままで充分、心奪われていた。
けれど、俺の影響だろうか、クラピカは少しずつ、女性らしくあろうとしていた。
「かわいらしい」下着をつけるようになった。着る服の素材が薄くなった。
その流れで、自然に化粧品に興味を持ったのだろう。
「クラピカ。メシ、できたぜ」
いつまでもぼーっとしているクラピカの背中に声をかける。
振り向いた彼女はいつも通りの表情だったが、俺はひとつ、妙案が浮かんでいた。
行きたいところがあるんだ、とクラピカを連れ出したのは日曜日の午後。
目的地を言わない俺に、彼女は少々訝しげだった。
到着したのは、百貨店の、いわゆるコスメカウンター。このフロアだけ、においが違う。
化粧品と、香水の、独特のツンとした香りがまざりあって、空気に溶け込んでいる。
カウンターを構えているブランドは10を軽く越え、男の俺でさえ知っているものがいくつもあった。
それぞれのイメージカラーの制服に身を包んだ美容部員が、それぞれ接客をしていた。
さすが、どの販売員も美しくみえる。メイクはもちろん、仕草、表情、立ち居振る舞い。
好みの商品を選ぶ女性客は、皆、瞳を輝かせていた。
フロアの入り口に立ち、隣のクラピカに目をやった。
固まっている。
思わず吹き出しそうになった。悪意的な意味はない。ここまで露骨な反応をされるとは。
俺は平静を装って、クラピカに声をかけた。
「あー、ほら、おまえ、日焼け止め欲しいって言ってたじゃん」
「・・・それはそうだが」
「こういうとこのやつも、いいかなって」
「・・・」
嘘ではない。だが口実だった。
さて、クラピカはどう出るだろうか。
「レオリオ」
「ん?」
「行きたいところとは、ここか?」
「うん、まあ」
「そうか・・・」
クラピカは顎に手を当てて、考えている。その表情からはなにも読み取れない。
やっぱ、いらぬおせっかいだったかなァ・・・。
「少し、見てもいいか?」
数秒の間をおいて、クラピカは顔を上げてこう言った。
その瞳は、このフロアにいる女性たちと同じように、輝いているようにも見えた。錯覚でなければ。
俺は内心ほっとして、
「もちろん。好きなだけどーぞ」
と言うと、クラピカは少しだけ口角を上げて、ぎこちなく歩き出した。
彼女が心置きなく品定めできるよう、彼女の手荷物をさりげなく受け取って、後をついて行った。
なんだかんだ、クラピカは楽しげだった。
「こういうもの」について、いったいどれだけ知識があるかは知らないが、
声をかけてきた美容部員の話を熱心に聞き、タッチアップしてもらったりしていた。
性格上、きちんと理解してから買いたいのだろう。いや、買う気があるかどうかは、まだわからないのだが。
俺はそれを、少し離れたところで見ていた。
ふと見渡すと、デートの最中であろう、荷物持ちの男性が数名、少々疲れた顔で壁際に寄りかかっていた。
安心しろ、俺たちは仲間だぜ。女ってのは、なぜあんなに買い物に時間がかかるのだろう、ってな。
無意識にほくそえむ。
そうして再び、クラピカの方へ視線を向ける。
・・・悪い、やっぱ前言撤回。待ってる時間が楽しい。こうしてクラピカを眺めているのが、楽しい。
ふと、クラピカが俺を呼んだ。
声には出さず、カウンターに座ったまま後ろを振り向き、俺を見つけると、視線で「こっちに来い」と促された。
おおかた、一通り試し終わって、「どれがいい?」というお決まりのターンだろう。
まさか、クラピカの化粧品を一緒に選ぶ日が来るとはなあ・・・。
クラピカの隣に控えている美容部員の女性は、満足げににこにことしている。
まるで化粧っ気のない、クラピカみたいな客は少ないだろうから、やりがいがあったのだろう。
俺は期待半分、不安半分でクラピカの元へ歩み寄った。
「よ、どんな感じ?」
クラピカの肩に手を置くと、彼女は緊張しているのか、肩をこわばらせて振り向いた。
「おー、どれどれ、・・・・・、・・・・・・・・・」
まあ、察してほしい。
こいつはもともと、美人だし、顔のパーツもひとつひとつが端正なつくりだし、肌もきめ細かいし、
化粧すればもっときれいになるって、そんなのわかりきっていた。
けど甘かった。
やめときゃよかった。
「レオリオ・・・やっぱり似合わないだろうか」
「そんなこと!いかがです?彼女さん、見違えましたよっ」
なにも言わない俺に、クラピカは眉をひそめた。
販売員の女性は、全力のオーバーリアクションで、それを否定した。
そろそろ、なにか言わなければ。
きれいだよ。似合うじゃんか。ま、たまにはそういうのもいいんじゃね?
だめだ、どれも違う。
適切な言葉が、俺のちっぽけな語彙力では浮かんでこない。
べつに、顔が変わるほど厚化粧を施しているわけでもない。似合っていないわけでもない。
プロがメイクしているからか?こんなに変わるものなのか?
いまだに感想が出てこないまま、俺は隣の「プロ」に目配せをする。
彼女は深く頷いた。言いたいことはわかってますよ、彼氏さん。私、いい仕事したでしょう?
そんなやりとりを視線だけで交わした。ふと彼女のネームプレートを見ると、いくつかの星印と、トップアドバイザーの肩書。
・・・グッジョブだ。
「レオリオ。いい加減、なにか言ってくれないか」
いつまでも様子のおかしい俺に、クラピカは痺れを切らして不満げな声を出した。
「あ、ああ、わり・・・えっと、これ、買ってく?」
「まあ・・・そうだな、せっかくだし」
クラピカの口から「せっかくだし」なんて台詞は聞いたことがない。
付き合い始めてからわかったことだが、クラピカは何を買うにも充分すぎるくらい吟味を重ねる。
だから、衝動買いなんて有り得なかった。
「とりあえず、試したものをいただきたい」
カウンターの上に並んだテスターの山。
って、これ、ぜんぶ?!
「ありがとうございます。とりあえず最低限のアイテムだけお試しいただいたので、まずはやってみてくださいね」
彼女の言葉通り、よくよく見てみると、確かに同じ用途の物はなかった。
細かくはわからないが、これが入門セットみたいなものだのだろう。
俺が買ってやるよ、と言ったものの、クラピカは頑なに拒んだ。
いつもはたいがい彼女が折れて、言うとおりにしてくれるのに、今回は違った。
新品の化粧品が入った、作りの立派な紙袋を販売員の女性から受け取り、クラピカはぎこちなく、けれど嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は、クラピカが自分の金で買いたいと思った理由が、わかった気がした。
いつもしているように、彼女が受け取った紙袋を俺が持とうとしたが、それもやめておいた。
帰りは、行きつけのカジュアルなレストランで、一緒に食事をして帰ろうと思っていた。
百貨店のビルを出て、駅に向かって歩き出す。
けれど、こうして見違えたクラピカの隣で、ふと思った。
不特定多数の目にさらしたくない・・・。
要は、俺の心の準備ができていなかったのだ。
情けない。俺から仕向けたことなのに。こうなることは、予想できたはずなのに。
クラピカは、俺の予想の斜め上を突き抜けた。
そう思うと、一気に心配になってきた。
クラピカがこれを機にどんどんきれいになって、今以上に魅力的になったら
俺から離れていくんじゃないか?
冷や汗が一筋、こめかみに流れていく。
おいおいおい、普段の俺ならそんなこと絶対に考えない。こんなの俺じゃないぞ。
気が動転しているだけなのだ。
頭を落ち着かせるために、クラピカの手をとった。
ふと目が合う。すると、俺だけに向ける表情で、笑ってくれた。
自然な桜色に彩られた唇は、仄かな色気を纏って、いつも以上にきれいだった。
そうか。
俺がもっと、イケてるオトコになればいい。
クラピカが目移りする暇もないくらい、惚れさせてやればいい。
それ相応の努力を始めなければ。もっと鍛えるか。その作戦でいこう。
とりあえず、一安心。まったく、魔性の女め・・・。
そして、数日後。
カーテンから漏れる光で目を覚ますと、ベッドの中にクラピカはいなかった。
部屋の中を見渡すと、ベッドの横の小さなデスクの明かりがついている。
クラピカは、デスクに鏡を置いて、背筋を伸ばして座っていた。
無造作に置かれた、真新しい化粧品。そのひとつを手に取って、クラピカは鏡の中の自分の顔を、まじまじと見つめていた。
これまでつらい思いばかりしてきた彼女だから
いろんな楽しいことを経験して、その隣に俺がいられれば、と思う。
朝早くから「研究」にいそしんでいる彼女の背中を、ベッドの中からしばらく眺めていることにした。
俺は、少しだけ、嬉しい。
2019/07/30
必ずしも「女性らしくある」必要って、ないと思うんですが、
レオリオと一緒に過ごすうえで、こんなパターンもありかな、という妄想です。
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