僕たちの勝敗


「・・・・」

馨の口元に頬を寄せても、何も感じられなかった。
無意識に細い首の付け根に指を当てる。気持ちとは裏腹に、その動作は的確かつ素早かった。
生きている証は、何も感じられなかった。

何が現実で、何が夢なのか。その区別すらつかない。目の前が真っ暗になった気がした。
俺はこんなに弱くはなかった。いや、自分をごまかしてきたのか。
悲しみを乗り越える力を、他でもない馨がくれたんだ。だから変われたんだ。
シンジも、美紀も。
見守ってくれている、そう信じて。前だけを見てきた。
馨だけは、この手で守ろうと――誓ったのに。

触れた頬は相変わらず氷のように冷たくて、そっと離した手はすぐに温かみを失っていった。
あたたかかったのは、俺の手の体温だった。

――美鶴。・・・順平、岳羽・・・。みんな。
シンジ。美紀。

俺はどうしたらいい。
こんな時に、こんな時こそ俺はどうしたらいいんだ。
何をしたら、何を捧げたら馨を救えるんだ?なにもできないのか?
同じじゃないか。美紀の時も、シンジの時も、そして今も。なんで繰り返すんだ、俺ばかり同じ過ちを。
なんで俺ばかりこんな絶望を3度も味わわなくちゃならない?
こうして馨を失って、また新しい力を得て、乗り越えて、他の誰かを愛して、前を向いて、その矢先にまた失うのか?
地獄のループじゃないか。それともそれが人生なのか?生きるというのはそんなにも残酷なのか?
わからない。わかりたくもない。

思考はオーバーヒートしていた。
次に顔を上げたときには、美鶴が俺の隣にいた。部屋にはすっかり明るい陽射しが差し込んでいた。時間が経ったようだ。
美鶴は下を向いて、俺の手を強く握っていた。
その力が男の俺でも痛いと思うほど強かったことは、その時は感じられなかった。
美鶴の足元に小さなしずくが落ちる。それはだんだん大きくなっていった。
声を殺して、泣いていた。手を握る力は緩められることはなかった。

病室のドアが壊れそうな勢いで開く。
部屋の端には医者と看護師がいたが、それを咎める者は誰もいなかった。
振り向かずともわかった。足音で、気配で、全員いるのがわかった。

「・・・嘘」

感情を持たないその声が岳羽だったのか、山岸だったのか。
後ろで誰かが床に力なく座り込んだ。ぺたん、という音からして天田だと思う。

「なんで・・・なんでよ!バカ!馨のバカ!」

最初に部屋に足を踏み入れたのは岳羽だった。他の者は動こうとしない。
岳羽はふらついた足元で、ベッドの脇にいる俺の肩にぶつかりながら馨にしがみついた。

「せっかく、ふつうに、一緒に、過ごせるって・・・あたしたち親友でしょ、なのに、なんで・・・」

なんで。
岳羽はそれしか言葉を知らないように繰り返した。その泣き声が、俺の耳に響いたがどうしてもリアルに感じられない。

「まだ話してないこといっぱいあるの。好きな人だってできたの・・・。聞いてよ、ねえ、帰ってきてよ・・・馨・・・」

岳羽は最後にぽつりとそう言って、諦めたように顔を伏せた。
誰も動かない。俺は涙すら出なかった。

ふと視線をベッドに移す。馨は変わらずに眠っているようにしか、俺には見えなかったんだ。

・・・

私はいなくなったりしませんよ。約束します。

いつだったか、タルタロスで怪我をした馨を、病院に連れて行った時のことだ。
情けなく不安になっていた俺の肩に、彼女は静かに寄り添ってそう言った。
そのあたたかさを、忘れなくても感じられなかった。リアルじゃない。

約束、守ってくれなかったな。

ごめんなさい。そう言って、ひょっこり俺の前に現れてはくれないだろうか。楽しそうに、ポニーテールを揺らしながら。
まあいい。次は気をつけろよ。そう言って小さく小突けば、あの嬉しそうな笑顔を返してくれるはずだ。

・・・だめだ、女々しいな。
そんなことを考えているようじゃ、俺はもう強くなれない。
もう強くなれない。

強さの限界はどこにあるのか。俺はどこまでどんなふうに強くなればいいのか。
これ以上なにを守ればいいのか。

なにを思って生きていけばいいのか。



今日は3月31日。寮が閉鎖される日だ。
朝、美鶴から電話があった。来ないつもりか、と。
ああ、やめておく。それだけ言って、電話を切った。

馨がクリスマスにくれた、手編みのマフラー。
引っ越しが終わり、荷物を取り出していた最中に出てきた。
きっと、とても時間をかけて編んでくれたのだろう。

来年は、なにがいいですか?
そう聞く彼女は、心底楽しそうだった。
そうだな、その時までには考えておく。そんな返事しかできなかった自分を今になって悔やんだ。

馨が俺に残してくれた物はこれくらいだった。
だって短すぎた。これから先、いろんなことがあったはずだ。
付き合い始める前に俺の誕生日が終わっていたことを馨はとても残念がっていた。
来年は、期待しててくださいね。馨がどんなことを考えていたのか、知ることはできない。
ああ、もう一度海に行きたいなあ。今度は先輩と二人で。
真冬にそんなことを言いだすものだから、少し驚いた。
わかったわかった、夏になったらな。そう返すと、約束をさせられた。

馨、と名前を呼んでも振り返ってくれる馨はもういない。
つい口に出してしまいそうだったが、そんなことをしたら涙しか出てこないと、知っていた。
・・・さっきからほんとうに女々しいな。どうしたっていうんだ。
これじゃシンジに笑われそうだ。

「・・・・」

馨。・・・馨。
マフラーを持つ手に涙が一滴零れ落ちた。
我慢できるものじゃなかった。
堪えられずにマフラーに顔をうずめて、泣くしかなかった。
もう泣くのは最後にしよう。そう思った。
いつもの馨の香水が、そのマフラーに染みついている気がして、さらに心は痛くなった。




その日のうちに寮に出向くことになった。
到着してみれば天田は怪我をしていて訳のわからん奴が暴れた後があった。
アイギスと同じような体をしている。名はメティスと言った。
永遠に繰り返される3月31日。そして再び召喚器を握ることになる。

過去と現在、どちらかを選ばなくてはならない。

過去、すなわち最終決戦の前に戻れば馨に会うことができる。
ただそれはもう一度ニュクスと対峙することになる。
今度も勝てるかどうか、ましてや全員生き残れるかなんて確証はない。
ただ、馨を死なせずに済む可能性だってゼロじゃないことは事実だ。

このまま今を生きれば、過去をすべて受け入れることになる。
無駄な過去なんてない。美紀も、シンジも、そして馨も。
そのすべてを失った過去を受け入れて今を生きるのか。

「真田さんは――どうしたいですか」

隣に座る天田が俺に振った。
究極の選択だが、迷いはない。
いつだってそうしてきた。自分の信じた道を行く。そうだろ?シンジ。
なあ――馨。

「――俺は、」

その答えを出した時、俺は生きる意味さえも見出すことになる。


end.


2011/10/21
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