僕たちの勝敗
「・・・・!」
頬に何かが当たった。そのくすぐったい感触には心当たりがあった。
馨の長いまつげだった。瞬きをしている。
驚いて、すぐに顔を上げた。緋色の瞳は、うっすらと俺を視界に入れていた。
「・・・か、おる・・・」
どうしようもなく震えた声は、いつも通り彼女の名前を呼んだ。
「・・・はい」
かえってきた、いつも通りの返事。声は少しかすれて、弱々しい。
けれど、確かに聞こえた。誰よりも愛しいその声。
感極まって泣きそうだったが、そんなことをしている場合じゃない。
俺はすぐ馨の状態をチェックした。
「大丈夫か?どこか、痛むところとか」
「・・・」
「え?」
かすれた声はうまくしゃべれないようだ。
俺は注意深く馨に耳を貸した。
「・・・おなかへった・・・」
「わ、わかった。すぐ医者を呼んでくるから。それからだ」
「アイス・・・」
「帰りに買ってやる!」
真剣にそう言うと、馨は小さく笑った。その笑顔がぎこちなかったのは、体調のせいだろう。
でもやっぱりおまえは――笑顔がいちばんよく似合う。
「・・・さむい」
「よし!ほら、上着貸してやるから。あと布団も運んで」
「・・・せんぱい」
「あとはなんだ」
「ありがと・・・」
さっきまでずっと握っていた馨の右手は、自分の方から俺の手に触れてきた。
そこからつたわるぬくもりに、胸が熱くなった。しっかりと手を握り返す。
「・・・ああ。さむいなら、今夜は一緒に寝よう。もう引っ越したから」
「えぇー、どうしよっかなあ・・・」
「・・・嫌なのか」
「うそ」
「・・・」
「えへへ」
・・・
奇跡というのは強く望めば起こると、俺は知った。望んだのは俺だけじゃない。
「槇村!!!!!」
病室のドアが壊れそうな勢いで開いた。それと同時に美鶴の怒声ともとれる声が部屋に響く。
馨の枕元には医者と看護師がいたが、彼らは何か言いたそうに咳ばらいをした。しかしそれに気づいたのは俺だけだ。
「あ、みつるせんぱ・・・」
美鶴はすかさず駆け寄って、ベッドに起き上がっている馨の体を勢いよく抱きしめた。
美鶴の胸に顔を圧迫されて馨は苦しそうだ。ぎり、という音が聞こえた。美鶴、しまってるぞ。
「あまり心配をかけるな!」
「ごめんなさい・・・」
馨は申し訳なさそうに小さな声で謝った。
それでもなかなか体を離そうとしない。・・・美鶴、それは俺の特権だ。
「よかった・・・ほんとうに」
「・・・ごめんなさい」
今度のごめんなさい、は、ありがとう、に聞こえた。
すると、再びドアが激しく開いた。同時にいくつもの足音が一斉に部屋に入ってくる。
医者たちは再び咳ばらいをした。今度は大きめに。しかしそれをかき消す、声、声、声。
「っ、か、かおるーーー!!」
「ゆかり!」
「この・・・・バカァ!心配させんな!バカ!」
「ごめんね」
美鶴の反対側から、岳羽も馨に抱きついた。
両サイドから二人に抱きしめられ、馨は苦しそうだ。・・・だから、それは俺の特権だ。
入口のあたりで、順平たちの安堵のため息が聞こえた。ふと振り向くと、全員力が抜けたように笑っていた。
「よぉ」
「シンジ!」
上下スウェットを来たシンジが病室にやってきた。順平たちが道を開けている。
「そういえば、同じ病院だったな」
「まあな。・・・ったく、あのはねっ返り、心配させやがって。よかったな・・・アキ」
「・・・ああ」
その日のうちの退院は、さすがに無理だった。体への負担が大きすぎたらしい。
あと1日ここにいれば回復します。それにしても、いったいどれほどの負荷をかけたんですか?普通じゃ考えられないことですよ。
医者の問いかけに、俺たちはあいまいな答えしか返せなかった。
それでも心配で、俺はその日も馨の病室に泊まることにした。予定はつまっていたが、朝早くここを出れば問題はない。
心配ない、と言われたって、その日ばかりは心配性にならざるを得なかった。
部屋に備え付けてあった簡易ベッドを馨の隣に置いて横になる。高さが違いお互いの顔は見えない。
高い方のベッドに寝ている馨の声が聞こえた。
「先輩」
「ん?」
「さみしい・・・」
「がまんしてくれ」
「・・・」
声は聞こえなくなった。
寒いなら、今夜は一緒に寝よう。そう言いだしたのは、俺の方だったな。
「・・・しょうがないな」
体を起こして立ち上がった。
真っ白い布団に手をかけて、静かに馨の隣に入った。
その時に見えた馨の体は、たった1日でやせたように見えた。
思わず眉をしかめた。
すべての代償を、この小さな体に背負ったんだ。そう思うとやりきれない。
だが、今俺にできることはこうしてそばにいてやることだけだ。
「ちょっとだからな」
「えー」
「こんなところ見られたら、追い出されるぞ」
「明日には追い出されますから」
昼間よりはだいぶ元気になったようだ。かすれていた声も、幾分ましになっていた。
「気分はどうだ?」
「んー、だるい」
「だよな・・・」
「でも大丈夫です、もう」
弱々しく笑う顔を見られるたびに、心の底からよかったと思う。
「明日、迎えに来るから」
「え?」
「なんだ、不都合か?」
「でも忙しいんじゃ」
「構わん。俺が会いたいんだ」
それは事実だったが、心配の方が大きかった。
まったく、しばらくはこれが続きそうだ。すっかりトラウマになりそうだ。
「帰りに、アイス買ってやるから」
「え!」
「約束する」
「・・・あ、でも、いいです」
「なんで」
「アイスもいいけど、一番食べたいのは、先輩と食べる牛丼かなって」
「・・・」
俺が目を見開いて驚くと、馨は嬉しそうに笑った。
「夢を見てたんです」
「・・・夢?」
「寝てる間に」
「どんな夢だ?」
「みんなの夢。ひとりぼっちで真っ暗なところにいたら、みんなが来てくれて」
「そうか・・・」
「一番最初に来てくれたのが、先輩でした。昨日の、屋上の時みたいに」
・・・
聞いてくれるか?と前置きをして。
横になった馨と同じ高さの視線で見つめ合った。
「俺が大学を卒業したら、結婚してほしい」
月明かりだけが頼りの病室で、ベッドの中で、しかもこんな時にいう言葉じゃないのはわかってる。
口が滑ったというわけじゃない。本気だった。
補足事項はたくさんあった。在学中に司法試験をパスすること、卒業したら警察庁に入ろうと思っていること、
だから将来は心配しなくていいこと、なにより俺が馨を愛していること。
すべて口にしていたら朝になってしまう。病み上がりの馨にそんな無理はさせられない。
だが伝えるのは今しかなかった。今しか。
「あ・・・」
さすがに驚いたようだ。困らせてしまうことも、予想はしていた。
だが辛抱強く馨の言葉を待った。
「いいんですか?」
「なにがだ」
「私で」
このバカ。
おまえ以外は考えられない。いい加減わかってくれ。
たまらなくなって、いつもよりやさしく抱き寄せた。
馨は小さく身じろぎして、ええと、と口を開いた。
「予約・・・?」
「そうだ。4年、長いが・・・待っていてくれるか?」
「・・・はい!」
変わらずにこの笑顔を守って行けたなら――
それが俺の生きがいにもなり得ると思う。
置いて行かれる悲しさはもう充分だ。今回それを嫌というほど味わった。
その悲しさを、馨には与えたくない。
だから馨を置いていくようなことは絶対にしない。
俺の命も馨の命も、もう一人だけのものじゃない。
生きる意味を見つけた。
Fin...