小さな約束
「それでね」
「うん」
「おゆうぎはっぴょうかい、ゆいが”しかい”なの」
「司会?すごいじゃない!」
「いっぱいしゃべるんだよ」
「これが台本?」
「うん!ほらみて、クレヨンでしるしつけた」
「もー、ゆいちゃんてばやっぱりパパの子ねー」
「ねー!」
ぎゅうう、と小さな体を抱きしめる。幸福を抱きしめているのだ、と実感するのがこの瞬間だ。
結は自分から頬を摺り寄せてきた。片手には人生初となる「だいほん」を持って。
そうしていると、いつの間にかリビングの入り口に明彦がスーツのまま立っている。今日は早いお帰りのようだ。
結は顔いっぱいに笑顔を広げて、忙しく両親の間を往復する。
「パパー!」
真っ先に父親めがけて飛びつく結を、彼は何よりも優先した。
本当なら家に帰ってもやることなど山ほどある。数件の電話。資料の整理。その他仕事にかかわる諸事雑務。
追われているわけではないが、できることに限界などない。だからすることがなくなることなどありえない。
だが、帰宅後の優先順位だけは譲れなかった。1分でも2分でも、これは最優先事項なのだ。
いつものように抱き上げると、片手に握られたままのクレヨンだらけの紙が、容赦なくスーツにこすり付けられる。
決して安くはないアルマーニのスーツなんだけど。しかし彼はみじんも気にする様子を見せないのが常だった。
ちなみに彼はブランドにこだわるわけではなく「警察官僚として恥ずかしくない恰好」をするには失敗のないブランドものがいいらしいのだ。
まあほかに散財のしようがない彼だから、そこに文句を言うつもりはない。
それにしても、彼のスーツはことごとく結の手によって汚される。
公園に迎えに行けば泥だらけの手で汚され、食事の支度中に帰ってくればべたべたの手で汚される。
馨はそのたびに結に注意するのだが、肝心の明彦が甘い。甘すぎる。
「いいだろこれくらい。減るもんじゃない。結と過ごす時間の方が俺にはよっぽど大事だ」
そういうことをいつもと変わらない雰囲気で真剣に言うから反論しづらい。
必然的に出張が多く毎日帰ることが少ない彼のその言い分がもっともなのは認める。
しかし減るというか汚れが増える。それを毎回クリーニングに出す手間を考えてほしい。
「ただいま。いい子にしてたか?」
「あたりまえでしょ」
「そうだった、結はもとからいい子だからな」
こうして一歩引いて見てみると、紛れもなく彼は親馬鹿だった。
べつに顔がデレデレになるわけでも、赤ちゃん言葉になるわけでもない。
そういう典型的なことはしないのだが、なんかこう、見ているとほほえましい。
それを本人が自覚しているはずもなく。結はさきほど馨に話したことをそのまま繰り返した。
すると、帰ってきた反応は馨と全く同じだった。
「おゆうぎはっぴょうかい、ゆいが”しかい”なの」
「司会?主役より目立つじゃないか」
「いっぱいしゃべるんだよ」
「これが台本か?」
「うん!ほらみて、クレヨンでしるしつけた」
「・・・やっぱり馨の子だな、なんて賢いんだおまえは・・・!」
「えへへー!」
「で、いつだ?」
「らいしゅう。ちーこりんのテレビやる日だよ」
「来週の金曜か・・・」
結を抱いたまま、一瞬だけ考える。
そういう微妙な表情の変化に、結は敏感だった。
「・・・・おしごと?」
「ああ。でも必ず行くよ」
「ほんと!?」
「もちろんだ」
「やったあ!」
「だからもう寝ろ。歯磨いてからな。ちゃんと10分きっちりな」
「はーい!」
元気のいい返事を聞いて安心したように、そのまま自室に戻ろうとする彼を引き留めた。
結は機嫌よく洗面所に向かっている。
「ちょ、ちょっと!」
「ん」
「休みじゃないのに約束なんか」
「幸い来週は本庁に缶詰めの予定だからな、物理的距離の問題はない。車を飛ばせばすぐだ」
それは運が良かったと言える。娘の晴れ舞台(というにはスケールが小さい)を見るためだけに、
最悪、出張先から飛行機で往復するくらいの覚悟はしていたのだが、それは回避できそうだ。
もしそうなったとしても、どんな手を使ってでも行くつもりだったのは変わりないが。
「そういうことじゃなくて」
「行くさ。必ず」
俺は結の父親だからな。そう付け足した。
まだ何か言いたそうな唇を、長い指で軽く押さえる。こうされると何も言えない。
その余裕の笑みは、相変わらずだった。
・・・
発表会当日。
結が起きたときには、明彦はもういなかった。
「パパいないの?」
「お仕事よ。お昼には幼稚園に行ってるよ」
「・・・」
「ママもいくから」
「・・・ママ」
「なに?」
「パパって”しごといのち”?」
その顔に、不満も疑いも感じられない。あるのは純粋な疑問と好奇心だった。
「どこで覚えたの、そんなことば」
「テレビ」
「まったくもう」
「しごといのちなの?」
ふっと笑ってこう答えた。自信満々に。だってそれはまぎれもない事実だからだ。
「誰のパパよりも家族命、だよ」
・・・
一目見れればよかった。それはお互いに。
結は結で、始まる前にたくさんの観客の中から一番かっこいいうちのパパを探せればそれでいい。
チラチラ見るたびに手を振ってほしいわけじゃない。実際に来てくれて、自分の姿を目に入れてくれることに意味があるのだ。
あとは集中して自分のやるべきことをやるだけだ。年齢よりも妙に大人びているところは、どちらに似たのか。
そして今回も、それを果たすことができた。
小さなステージの上で演目が始まる。客席に座る馨は、先ほど隣にやってきたばかりの明彦に小さく声をかけた。
「車?」
「ああ。待たせてある」
「もう行くんでしょ?」
「まあな」
「気を付けてね」
「ああ。それにしてもやっぱりうちの結が一番かわいいじゃないか。天使みたいだな」
「・・・そうね」
「俺の分まで見とけよ。あ、これビデオのバッテリーの替えだ」
「・・・」
「写真もな!何のための一眼レフだ」
「はいはい」
彼がその場にいたのは5分もなかったように思う。
暗幕のかかった室内から出るころには、もう耳に携帯を当てていた。