涙のあとに
鍵を開けて家の中に入ると、電気はついていた。
ということは馨は帰ってるんだろう。
なのにおかしい。いるなら部屋から出てきて迎えに来てくれるはずなのだが。
嫌な予感がして、今朝の自分の行動を振り返ってみる。
普通に起きて、一緒に朝食を食べて、馨は一足先に出勤した。
俺は新聞を読みながら、気をつけろとだけ言って軽くキスをした。
・・・。馨の機嫌を損ねるような行動はしていないはずだ。
それに、馨が怒るなんてよっぽどのことだ。正直美鶴の処刑より恐ろしい。
妙な汗をかきながら、明かりのついているリビングへそっと顔を出した。
「・・・馨?」
馨の姿はない。しかしよく見渡すと、奥のソファに横になって眠っていた。
なんだ、寝てただけか。ホッと胸をなでおろす。しかし気になることがあった。
ソファの前の透明なテーブルの上には、見慣れないビンが置いてある。
とにかくだ。鞄を置いて、馨を起こしに行った。何もかけないで、あれでは風邪をひく。
「馨。起きろ」
「・・・」
肩を揺さぶったが、起きる気配はない。めずらしいな、うたた寝でこんなに深く寝入るなんて。
そっと頬に触れると、熱を帯びていた。よく見ると顔は赤い。・・・言わんこっちゃない、すでに風邪か。
「馨!」
「・・・ん、・・・・?」
頬を軽く叩くと、ようやく起きた。
「ただいま。こんなところで寝るな」
「・・・あ、きひこ」
「ん?どうした」
馨は薄く開いた瞳を瞬かせている。一瞬いつもより幼く見えて、ついドキッとしたのは不可抗力だ。
その赤い瞳の中に俺をはっきりとらえると、嬉しそうに笑って腕を伸ばした。そしてそのまま首にしがみつかれる。
「・・・おかえりなさい〜」
「あ、ああ」
首筋に熱い吐息を感じる。純粋に嬉しかったが、それと同時にあることに気が付いた。
馨は俺から離れようとしない。それどころか、落ち着きなく体をよじっている。
「チュウして」
「は」
「ねえ、して?」
「・・・おまえ」
「なあにー」
「酔ってるのか」
小さくため息をついて、テーブルの上のビンを手に取った。これが答えか。
「あ、えっとー、美鶴先輩があ、おいしーいワインを届けてくれたんですよ。空輸ですよー」
「美鶴が?」
「ドイツの会社を買収したそうでー、おすそわけだそうですー」
なるほど。部屋の隅にはきれいに開封された包みがある。中にはまだ2本ほど残っていた。
栓が抜かれたビンの中身は半分以下に減っていた。まったく・・・。
「これ全部おまえが飲んだのか?」
「一人酒ですぅ」
「顔が真っ赤だぞ」
「そうですか?」
「この酔っ払いが」
馨を引き離そうと腕を取るが、なかなか離れない。
忘れていたが、馨は意外と力がある。かと言って俺が本気を出したら馨の腕を痛めてしまうし。
どうしたものか。
俺と馨は酒も煙草もやらない人間だった。酒は付き合い程度にたしなむ程度だ。好んで飲んだりはしない。
今思うと、馨は俺に合わせていただけだったのかもしれない。
だから、こうして酔う馨を見るのは初めてだった。・・・見る限り、ほろ酔いなんてかわいいもんじゃない。
・・・泥酔一歩手前か。
「どうしてこんな無茶な飲み方をするんだ」
「怒ったぁ」
「馨!」
「・・・っ、真田先輩のバカぁ!」
「なっ、」
馨の口から出てきたのは意外な言葉だった。
真田先輩。まさか結婚してからその呼び方をされるとは。気持ちとは裏腹にどこか懐かしい気持ちに一瞬だけなった。
馨はそれに気づかないようで、力任せに俺を突き放した。酔っ払いの馬鹿力でも、後ろによろけることはなかった。
これでも一通りの訓練を受けた警察官だ。
「私はさみしかっただけです!」
さっきから、馨は敬語だ。まるで高校生の頃のように。たぶん無意識なんだろう。
「・・・先輩が仕事忙しいのはわかってるのに、さみしいのはどうしても消せないんです・・・」
馨は子供のようにしゃくりあげながら、流れる涙をぬぐおうともしなかった。人前で、俺の前でさえ涙を見せるのを嫌がるのに。
ようは、すれ違っていた。不本意にも。結婚してからは、より馨を大切にしようと誓ったのに。
馨がさみしい思いをしているのを分かっていて、俺はどうすることもできなかった。そんな自分に今まで気づかないふりをしていた。
「それを不満に思ってる自分が・・・嫌で嫌でしょうがないんです・・・。私、自分のことしか考えてない」
馨の本音には、胸が痛んだ。誰にだって、誰にも言えない本音はある。それが身近な人間ならなおさらだ。
――馨はさみしいなんて一言も言わなかった。いつでも笑顔で送ってくれるし迎えてくれる。俺は馨のやさしさに甘えていた。
自分のことしか考えていなかったのは、俺の方だ・・・。
「だから・・・、・・・っ」
涙を流しながら言葉を続けようとする馨を見ていられなくて、手を伸ばして強く抱きしめた。
衝撃で後ろのソファに倒れこむ。
「馨・・・」
「・・・」
「ごめんな・・・」
おそらく俺が彼女の本音を知らないままでも、この先やっていけていた。
解決方法なんていくらでもあるからだ。それを一生かけて二人で模索していくのが夫婦だと俺は思う。
しかし今日この瞬間に、俺は感謝した。・・・美鶴に借りができたな。
それでもやっぱり、馨にさみしい思いをさせ続けてしまうことは想像できた。
大切なのは、気づくことだ。そう、こんな風に。
そっと体を離して、目を合わせた。
馨は泣き止んだが、頬と目じりはまだ濡れている。そうさせてしまっている自分に嫌気がさして、思わず眉をしかめた。
頬に手を寄せて、そっと涙をぬぐう。
「・・・すきなの」
馨はそんな俺の手に自分の手を重ね合わせて、消え入りそうな声でそう言った。
「だいすきなの・・・」
脳裏にいつかの記憶がよみがえる。
俺は同じ台詞を馨に言われた。あのころ、屋上で。あの時も、馨は泣いていた。
ああ、そうか。
この涙は
悲しみの涙なんかじゃない。
「・・・すきなの、あき――」
「ああ、わかってる」
「!、んっ・・・」
馨の顎に手をかけて、そのまま口をふさいだ。
やさしく触れて、すぐに強引に奪う。アルコールのせいなのか、馨はいつもより敏感に反応した。
押さえつけている細い腰がびくんと動くのがわかる。途切れ途切れに漏れる甘い声が、俺を求めているように聞こえた。
白い耳たぶを甘噛みしながら、耳元でそっと囁く。
「・・・馨」
「ん・・・」
「ベッド、行くか?」
馨はそのまま、小さく首を振った。
「このままでいい」
「・・・わかった」
その言葉に小さく微笑んで、スーツの上着を無造作に脱ぎ捨てた。
このままでいい、か。ソファで出来ないこともないが、(馨が)明日筋肉痛になるのは必至だな。
そこは逆の発想で、体勢を変えてみるのも手だろう。
ネクタイに手をかけると、馨がすまなそうに俺の胸にすり寄る。
「・・・ごめんね」
「ん?」
「スーツ汚れちゃった」
ところどころに、馨の涙の痕が残っている。
もちろんそんなものはかけらほども気にしていない。
「かまわない」
「でも」
「わかったから・・・おとなしくしてろ」
そう言われるのを待っていたように、馨は覆いかぶさる俺を受け止めた。
やさしくしなくてもいいの
壊れてもいいから、痛くてもいいから
――私を愛して。