彼女未満
日曜日の朝に「出かけないか」と電話が来て、
それがものすごく嬉しい反面、自分に自信がなかったり、服とか化粧とかいろいろ間違ってないか不安になった。
それはつまり、恋してる、みたい。しかも片思い100%。
私服で日曜日に二人で出かける。はたから見たら完璧デート、だよね。そう思っていいよね。
けどそうじゃない。デートなんかじゃない。だって目的地は、はがくれだ。
覚悟はしてたけど、少し残念。そんな自分勝手なことを思っちゃうあたり、私はほんとに先輩が好きなんだろう。
「なあ、槇村」
「は、はい」
「実は、相談したいことが」
思わず鼓動が高鳴った。そんなことを言われたのは初めてだ。
いつも迷いのないすっきりした表情なのに、今日はなんだが物憂げだ。
「困ったこと、というか・・・まあ、トラブルがな」
「トラブル」
「ああ」
「・・・後輩の女子に、付き合ってくれと言われてな」
先輩は言いづらそうに、眉をひそめてそう言った。ラーメンの丼ぶりを前に、箸はあまり進んでいない。
「もちろん断った。だが、それ以降も差し入れだったり手紙だったり、なかなかあきらめてくれない。どうしたものかと思ってな・・・」
はあ、と小さなため息が漏れる。そして、答えを求めるように私の方に顔を向けた。
どうしてそんな相談を私にするのか。私の気持ちをこの人は知っているんだろうか?
複雑な思いのまま考えを巡らせる。一番効果的だろうと思う断り方を提案した。あえて自分の気持ちは無視して、彼のことを最大限考えた。
「彼女がいるから、は?」
先輩は、なるほどと頷いた後、再び困ったような顔をした。
「まあ、それがいちばん手っ取り早いか・・・しかし嘘をつくのもな」
こういう時でさえまっすぐで正直な人だ。恋愛に苦労しそう。少しくらいのずる賢さもあっていいと思うのに。
そう思った矢先、先輩はこんなことを言った。軽く、明るく。
「今すぐ見せろと迫られたら、おまえに代役でもやってもらうかな、ハハ」
そこは笑って、私でよければいつでもどうぞ、と言うべきだ。
できそうにない。ていうか無理。唇をかみしめて、箸を握る拳に力が入った。
そのつもりはなかったのに、割り箸はバキッと鈍い音を立てて二つに割れた。
それを合図にしたように、私は勢いよく立ちあがって先輩の頬めがけて腕を振った。
パァーン。
いい音がして、ついでに店内は静まり返った。手元にあった自分の鞄と上着を腕に抱えた。
涙ぐみながら財布を取り出して、1000円札をテーブルにたたきつける。こんな時でも頭はどこか冷静だった。
「最低!バカ!おたんこなす!アンポンタン!もう知らない!」
思いつく限りの罵声を浴びせて、全速力で店を出た。
「・・・ニイチャン、今のはあんたが悪いぜ」
カウンターの向こうの店長らしき中年男が、ザルを振りながらぽつりとそう言った。
・・・
「それはひどいわねえ」
「・・・」
「まあ、真田先輩だからって言っちゃえばそれまでなんだけど」
「・・・」
「デリカシーゼロ、ね」
その足で寮のゆかりの部屋に飛び込んだ。
ゆかりは快く迎えてくれた。私が先輩をすきなことを、ゆかりは知っていたから。
少しだけがんばったおしゃれも、今ではみじめなだけだ。
「でも・・・殴ったのはやりすぎだって後悔してる」
「そんなことないよ。それくらいしなきゃわかんないでしょ、あの人は」
「・・・嫌われたかもしれない」
「馨・・・」
じわ、と目頭が熱くなった。
涙を振り切るように、隣のゆかりの肩に頭を寄せた。ゆかりは文句ひとつ言わずにそのまま抱き寄せてくれた。
「かわいいわね、あんたは」
「・・・」
「それくらい、先輩がすきなのね」
恋愛は一喜一憂だし、その強弱も激しい。だからすごく疲れる。だけどそれくらいすきだった。
それくらいすき。それを認識したのが今日だった。
それくらいすきだから、本当の彼女になりたい。代役なんかじゃなくて。・・・恋愛って苦しい。
・・・
「・・・」
「・・・」
「・・・、ハァ・・・」
「・・・・・・・・・」
沈黙を破る順平のため息。そして再び沈黙が始まる。
さっきからそれを繰り返している。俺はラウンジで順平と二人きりだった。
「・・・、デリカシーゼロ、っすね」
「・・・」
「マジで」
「・・・」
言い返せなかった。順平は珍しく真剣だった。
後からこう考えてみても、なぜ彼女が泣くほど怒ったのかはよくわからなかった。
ただ、泣かせてしまったことをとても後悔していた。殴られたことよりも、だ。
女子が俺の前で突然泣き始めるなんてしょっちゅうだった。告白を断れば大半が泣きながら走り去る。
そのたびに少しの罪悪感と、どうしてその罪悪感を俺が背負わなければならないのかという軽い憤りと、やっと解放されたという安堵があった。
槇村のそれも、同じだったはずなのに。憤りどころか、今は罪悪感しかない。
「どうしたら許してくれるだろうか・・・」
「そりゃ土下座っすよ」
「ど、土下座か・・・」
「まあそりゃ言いすぎっすけど、実際、それくらいの勢いで謝った方がいいっすよ」
「ああ」
「謝るだけっすよ。他に余計なことは言わない」
「余計なこと・・・?」
「さらに誤解を生みそうなことですよ」
「あ、ああ」
「あとは真田サン次第なんすから」
「俺次第?」
聞き返しても、順平はそれきり何も言わなかった。
・・・
翌日、少し早めに起きて登校準備を済ませると、鞄を傍らにラウンジのソファで槇村を待った。
ここなら避けられようがない。少し卑怯かもしれないが、俺にはそうするしかなかった。
思えば女子に殴られたのは初めてだな。遠慮のない、恐ろしくキレのいい平手打ちだった。
その気持ちに、できるだけ真摯にこたえなくては。この気持ちの変化に、まだ自分では気づかない。
美鶴が階段から降りてくる。続いて岳羽。二人を見送って、槇村を待った。そろそろだろう。
と思った時に、槇村が珍しく重い足取りで階段から降りてきた。俺はとっさに立ち上がる。
彼女は俺に気付くと、足を止めて肩をビクッと震わせた。お互いにそのまま動けない。距離はずいぶん遠かった。
「そのままでいいから、聞いてくれ」
「・・・」
「・・・昨日は悪かったな」
「・・・」
「悪かった」
順平の言うとおり、余計なことは言わなかった。何が余計なこととなるかわからない。
悪かった、以外は言わないことにした。それで返事を待って許しを請おうなんて、ずるいだろうか。
槇村は案外早く、言葉を返した。その口調はいつも通りだが、どこか震えていた。距離は保ったままだ。
「私の方こそごめんなさい」
「・・・いや」
「あと、・・・やらせてください」
「え?」
「彼女の代役」
「なっ、」
「立派に演じて見せますから」
そう言うと、槇村は首をかしげて少し微笑んだ。
俺には彼女の気持ちが、まだわからない。
・・・
「というわけで・・・俺には彼女がいるんだ」
無理やり見慣れた例の後輩を目の前に、人気のない中庭で話をした。彼女は目を見開きながら、必死に首を振る。
「うそ!そんなの信じられない!」
「本当だ」
「なら見せてください!」
まさか、本当にこの流れになるとは。少し離れたところにいた槇村に目配せをして、こちらに呼ぶ。
槇村はいつもと変わらない表情で俺の横にぴったりついた。この距離は、初めての距離だ。
「あ・・・あんた、転校生の」
「よく知ってるね。隣のクラスの秋山さん」
考えてみれば彼女も槇村も2年生だ。顔見知りの可能性は十分にあったわけだ。しまった、それを考えていなかった。
「う、うそよ!あんたが転校してきてまだ半年もたってないじゃない」
「時間なんて関係ないでしょ」
「大アリよ!あたしがいつから先輩のことすきだったか、知らないでしょ!?」
「長ければ長いほど偉いの?」
「屁理屈言わないで!あんたなんかより、あたしの方がずっと好きなのに!」
彼女はそう言うと、槇村が俺の隣にいるにもかかわらず飛びついてきた。
「ちょっと!なにしてんのよ!」
「それはこっちのセリフよ、さっさと離れてよこのブス!」
「ブ・・・、ブスはそっちよ!それにチビ!」
「なによデカブツ!」
前から左から体を引っ張られる。さすがに痛い。一体なんなんだ、この光景は。
やがて言い合いがヒートアップした二人は、お互いの顔を引っ張り始めた。
徐々に俺ははねのけられて、解放された。・・・止めなければ。
「おい!やめろ!」
二人は中庭の芝生に転がりながら攻防戦を繰り広げている。お互い一歩も引かない。制服や髪が汚れてしまっている。
俺は槇村を後ろから引っ張って、秋山から引きはがした。赤くなった頬に乱れた制服。
引っ張られたためか、目には涙がたまっている。それは相手も同じだった。
お互い肩で息をしている。それくらい激しいやり合いだった。・・・女子は女子で恐ろしい。
「もう、なんなのよ!なんであんたなんかに!」
手元の芝生をちぎって捨てて、秋山は投げやりにそう言った。
「じゃああんたは真田先輩のどこがすきなのよ!」
槇村のその言葉に、秋山は声を詰まらせた。
目を泳がせながら口を開くと、勢いに任せたように「ぜんぶよ!」と言った。
槇村は呼吸を落ち着かせるように小さく息をついて口を開いた。
「私は、全部は好きになれない。突っ走るし自分勝手だし最悪なくらい鈍いし!」
その言葉は少なからず俺の耳に残った。・・・そうか、そこを改めろということか。
「・・・でも!それ以上にすきなところがたくさんあるの。やさしさが下手だったり、ちゃんと向き合ってくれるとことか、
たまに笑ってくれたり、・・・もう、嫌いなところもひっくるめてどうしようもなくすきなの!」
彼女の声は少し擦り切れて、震えていた。言葉の節々が矛盾していて、槇村らしくない。
これが
代役の彼女の演技、なのか?
「あんたは先輩の何を知ってるの?そもそも知ろうと努力したの?
自分勝手に気持ちだけ押し付けて自分のものにしようなんて、彼女になる資格なんかないよ!」
訪れた短い沈黙。俺はつかんだままの槇村の肩を離すことができなかった。
秋山は小さく「う」と唸ると、大きな泣き声を上げながら校舎の方へ走っていった。
俺と槇村は座り込んだまま、しばらく沈黙した。俺の前にいる彼女の顔を、うかがい知ることはできない。
ただこんなに近い距離にいることは、初めてだった。
目の前のポニーテールには、葉っぱがついていた。
さっきの取っ組み合いの名残だ。
それを取ってやれるほど、俺は器用な男じゃない。
なんと声をかけたらいいのかわからない。「諦めさせる」という当初の目的は達成したわけだが、ここまでひどいことになるとは思わなかった。
まさか、いや確実に俺のせいなのか。すまない。ありがとう。いや違う。どれも違う。なんて言えばいい。
槇村は立ち上がると、制服の汚れを払いながら俺の方を振り向いた。「行きましょう」と小さく笑った彼女の笑顔は、いつもとは少し違うように見えた。
・・・
その夜。
俺はラウンジで一人、ソファに埋もれてうたた寝をしていた。
槇村がバイトから帰ってきたらしく、玄関のドアが開く音で目が覚めた。待ってたわけじゃない、と言えばうそになる。
しかし体は起こさなかった。なぜか顔を合わせづらかった。
足音はこちらに向かってくる。俺は再び目を閉じた。柄にもない。狸寝入りなんて。
耳元にくすぐったい感触を感じた。――ふわりとした、槇村の髪だった。
それに驚く間もなく耳元でこうささやかれた。
「今日言ったこと、演技じゃないですよ。いつか、本当の彼女にしてください」
そして最後に、小さく笑ったのがわかった。その微笑みが何を意味しているのか。
くるりと踵を翻して、足音は遠ざかっていった。その足音が完全に消えるのを待ってから、ゆっくりと目を開いて体を起こした。
鈍い鈍いと誰からも言われる俺でも、なんとなくわかった。
そしてうるさいくらい大きく鳴り響くこの鼓動の正体も。