見つめていたい


期末テストを控えた、最後の日曜日。
数学が得意だという真田の部屋に、「数学だけはホントダメで」という言い訳をつけて、朝から入り浸っている。
実際は、前回の中間テストでも数学はまあまあの出来だった。――学年トップをとるくらいだから。

「だから答えはこうなるわけだ」
「なるほど。そういうわけですね」
「・・・さっきからやたら物わかりがいいな。おまえ本当に数学苦手か?」
「えっ?んー、少なくとも先輩よりは苦手です」
「まあ、人に教えることで俺自身も理解が深まるしな。いい機会だ」

たくさん並べられたグローブ、嫌でも目立つサンドバッグ。真田らしい部屋だが、女子を呼ぶには色気がなさすぎる。
部屋の中央の小さなテーブルに、ノートやら教科書をいっぱいに広げて向かい合う形で座っている。

「ちなみに先輩の苦手科目は?」
「ん・・・、・・・英語だ」
「英語ー?意外です」
「なにが意外だ?」
「先輩に苦手なものなんてなさそうだから」
真田には完全無欠のイメージがある。少なくとも、ファンクラブの女子たちはそう思っている。
「おいおい、人間誰でも苦手なもののひとつくらいあるに決まってるだろ」
「たとえば?」
「寄ってくる女とかな」

本人非公認のファンクラブの存在は、彼にとっては迷惑なことこの上なかった。
「抜け駆け禁止」は絶対の掟だが、「こっそり」と近づこうとしている者も多いのが事実。
部活の前にしょっちゅう呼び出される。それでよく遅れてしまう。
限られた高校時代の3年間とは思いのほか短いものだ。
実際自分はもう3年生。卒業まで1分1秒と無駄にしたくないのに。

ファンクラブの影響は馨にも及んでいる。
最近もファンクラブの一人であろうクラスメイトから「あなたって先輩と仲いいけど、まさか狙ってたりする?」と聞かれたり――。
狙っているどころか、こうして部屋に入れてもらえるくらいの仲であるなんて、口が裂けても言えない。
もしばれてしまったら、いるかどうかはわからないが、過激派の連中に何をされるかわからない。

「だいたい顔も名前も知らないやつにいきなり告白されてOKなんて言えるか?女の考えていることは俺にはまったくわからない」
当の本人は取りつく島もない。
馨自身、真田の色恋ごとの疎さにはとまどうこともある。けどそれは長所だと思う。

「それに、俺にはおまえがいるから」
真田はノートに英単語を書きながら、微笑んでさらりとそう言った。
卑怯だなあ、その角度。こういう笑顔は、二人きりの時にしか見られない。
普段とあまり変わらないように見えるが、雰囲気がやわらかくなる。それが嬉しかった。

「ねえ先輩」
「ん?」
「聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ、どの問題だ?」
馨の手元の数学の教科書を覗き込み、返事を待った。

「先輩は、私のどこが好きですか?」

予想外の質問に、思わず顔を上げる。少し考えてから、こう言った。
「それは・・・難しい問題だな。正しい答えなんてない」
「えーっ、ないんですか?・・・ショック」
「ち、ちがう!・・・ありすぎるから困るんだ」
真田は眉をひそめて、たちまち顔を赤くした。
それを見た馨もなんだか急に恥ずかしくなり、お互いにぱっと下を向いてしまう。
さっき解いた問題をもう忘れてしまった。

「・・・そうだな」
小さい声で、気を取り直したらしい真田が口を開いた。
「いつも楽しそうに笑ってるところが好きだ」
「・・・あ、はい」
「あと、順平と一緒になってふざけてるのも意外にかわいい」
「・・・お手上げ侍です」
「細いのに俺より食べるところも好きだ」
「先輩につきあってれば嫌でもそうなります」
「ああ、それから――見た目もすごくかわいいぞ?」
「・・・!」

自分の顔を好きだと言ってもらえるのはとても嬉しい。けど同時に恥ずかしい。
「で、ででも、美鶴先輩もすごく美人ですよ」
なぜここで美鶴を出したのか馨自身もよくわからない。とにかく何か喋って気を落ち着けたかった。
「美鶴は・・・たしかにそうかもしれんが、もう少しかわいげがあったほうがいい」
「え?充分かわいいと思いますよ。まあ、あの隠れたかわいさを男の人が知っちゃったらもっともてちゃいそうです」
「・・・?そうか。でも俺は馨が一番だ」

そうやって
いつでもまっすぐ私を見てくれるところがすきだと言ったら
先輩はどんな顔するかな。

「――そうだ。ちょっと席を外す」
「え?」
「幾月さんに作戦室に来るように言われてるんだ。すぐ戻ると思うが・・・
おまえはまだいるか?・・・いや、いてくれると、嬉しい」
「はい!待ってます」
「・・・ありがとう」

・・・

「・・・ふう」

用を済ませ、作戦室を後にした。
それにしても、さっきの馨はあからさまでかわいかったな。
席を外す、と俺が言った瞬間のがっかりした顔。待ってる、と返事をした瞬間の満面の笑顔。
あんなにコロコロと表情を変えて、見てるこっちは飽きない。

すぐ戻る、といったものの、結構長居してしまった。30分くらいはいただろうか。
あの人の話はたいてい長引くからな・・・。
自室の前で、一応ノックをする。妙な光景だが。しかし返事はない。不思議に思いつつ鍵を開けて入った。

定位置のテーブルに、馨の姿はなかった。開きっぱなしの教科書、ノートの山はそのまま。
当の本人は、俺のベッドですやすやと気持ちよさそうに眠っていた。12月半ばというのに毛布も掛けないで。
もらってきた書類を机の上に置き、ベッドの前で立ち止まった。

いつもまとめてある髪の毛はほどかれていた。
思っていたより長くて、ストレートとは言い難い。癖毛なのだろうか。それでも、艶やかできれいな髪だった。
――初めて見る。おろした髪も、そのあどけない寝顔も。

(・・・疲れてたんだろうな)

馨にかかる心労は、人並み以上だと思う。
それでも疲れを見せずにいつも元気だ。こうして俺との時間もつくってくれている。
それだけで、充分だった。これ以上ほしがるのは贅沢だ。

そんな気持ちとは裏腹に
勝手に体が動く。

「おまえは・・・無防備すぎる」
聞こえないのは承知で、静かに話しかけた。
馨を起こさないように、ベッドに片膝を乗せてそっと頬に触れた。
やわらかい・・・が、冷え切ってしまっている。暖房ぐらいつけておけばいいのに。
2人分の重みを受けて、ベッドはギシッと音を立てた。それが耳に響く。

「男の部屋でそんな恰好で寝るなんて・・・」
ふと視線を右に移した。
冬だというのに生足にミニスカート。スカートは暖かそうな素材のチェック柄だった。
そしてこれは・・・ニーハイ・・・なんとかと言ったか。片膝を少し曲げているせいで、視線のむけ方によっては太ももが丸見えなのだ。

「まったく・・・勘弁してくれ」
まるで自分に言い聞かせているようだ。そうだ、もうやめてほしい。
「・・・ん」
馨はそれまで物音ひとつ立てずに静かに眠っていたが、ふと声を漏らしてゆっくり身じろいだ。
自然と唇に目がいった。意識はしていない。自然にだ。
ふっくらとしたきれいなピンク色の唇。近くで見ると、とても整ったきれいな顔だった。

おまえのせいだからな。
心の奥でそっと呟いて、そのまま身をかがめた。

・・・

キスをするのはこれが初めてではなかった。
初めてこの部屋に呼んだ日、帰り際に、かするようなささいなもの。それが精いっぱいだった。
そしてこれが2回目のキス。自分勝手なキスだ。
「・・・・、ん」
無意識ながら異変に気付いたのか、馨は再び声を漏らした。
唇を合わせたまま、行き場のない小さな手を――冷え切った手をそっと握った。

5秒――10秒。どれくらい経ったか。
「・・・!」
引き寄せるように、馨の手が俺の服をきゅっとつかんだ。
もしかしたら起きてしまったのかもしれない。はたまた無意識なのかもしれない。――どっちでもよかった。
体重を支えている右膝が次第に痺れていたが、気に留めなかった。
角度を変えて、より深く口づけた。そしてすぐに体を離した。

馨は相変わらず眠っている。髪も、服も――少しだけ乱れてしまった。
落ち着けるように呼吸を整えて、そのまま部屋を出た。

行きつく先はない。走りに来ただけだ。私服のままだが。
・・・あれじゃ蛇の生殺しだ。生き地獄だ。あのままなにもするな、なんて、無理以外のなにものでもない。
大切にしたいのに。俺が守らないといけないのに。

「・・・」

外は寒かった。
頭を冷やして帰ろう。

・・・

2時間ほどしてようやく寮に帰る気になった。
男の煩悩がこんなにやっかいなものだったとは。

馨はまだ
いるだろうか。

ラウンジには、岳羽と順平がいた。
「あ、先輩。おかえりなさい。・・・あの、馨知りません?」
「えっ」
少なからずの動揺。あたりまえだ。
「朝からいないんですよねー・・・出かけるとか言ってなかったし」
「・・・どうだろうな」
嘘は言っていない。しかし俺の部屋にいるだなんて言えない。
適当にその場をやり過ごし、一呼吸おいて部屋に入った。

馨は身の回りを整えて静かに座っていた。・・・正座?
少し乱れてしまった襟元も、ほどいてあった髪の毛もいつもどおりまとめられていた。
「おかえりなさい」
「ああ。・・・どうしたんだ?」
「・・・すみませんでした」
「は?」
どちらかというと謝るのは俺の方だ。
馨があの時起きていなかったにしても。
「・・・勝手に先輩のベッドで寝ちゃいました」
「・・・」
「なんか1人になって急に眠くなって・・・。それで、怒って出てっちゃったんですよね。・・・ごめんなさい」
どうやら二人の視点はズレていた。拍子抜けしてしまった。

「俺がそんなことで怒ると思うか?」
「・・・じゃあこんな時間までどこ行ってたんですか?」
たしかにそれはもっともな質問。最初に俺が部屋を出てから、もう3時間近くたっている。外はもう薄暗い。
「・・・ちょっとな」
「?」
「それより・・・おまえこそ、自分の価値を再認識した方がいい」
「え?」

馨は俺の言うことが理解できないようだった。
自分をもっと大事にしろ、と言いたかったのだが。
「とにかく、男の部屋であんな風に寝るな」
「ダメですか?」
「言ってるだろ。ダメに決まって――」
「先輩だけです」
馨は立ち上がって、俺の方に向き直った。

ボクシングで有利な戦局に持っていくのは得意だった。計算すればいい。力があればいい。
そんな俺も馨にはかなわなかった。予想外の手をいくつも繰り出してくる。
――こんな相手は初めてだ。

「先輩・・・だけです。私がこんなことするの」
この微妙な距離がもどかしい。そのまま抱きしめてしまいたかった。
馨は懸命に言葉を選んでいる。それを見ているのは、たまらなく長い時間に思えた。

「今日は帰したくない」

頭で考えるより、先に口が出ていた。
ここは寮だってことも
あしたからテストだってことも
そしてその言葉の意味も
すべてひっくるめてわかっていた。

返事を待つほどの余裕はなかった。気が付いたら手を伸ばして、馨を抱きしめていた。
困らせてしまうとか
嫌がられるとか
そういうことは考えられなかった。
馨の返事はこうだった。
「私も・・・今日は、ここにいたいです」


・・・


翌朝。
幸福な目覚めだった。
体はよくできているもので、昨夜寝たのはかなり遅かったのに、いつも通り6時には目が覚めた。
本来ならば朝のトレーニングに行く時間。その時間を、今日くらいは馨との時間にあてたい。

毛布の中で、もぞもぞと馨が動いている。目が覚めたようだ。
「・・・なんだ、もう起きたのか」
「・・・」
「すごい寝癖だな」
「・・・だからアップにしてるんです」
「なるほど」
起き抜けの声は低い。低血圧か?
「・・・、!!」
「どうした?」
「・・・、///」
「なんだよ」
「・・・違和感が」
「・・・なっ、」
「なんか、まだ入っ」
「言うな!!」
「・・・(むぐ)」

「とにかく・・・そうだ、学校だ。着替えてこい。今日は俺も一緒に行くよ」
「ほんとですか?」
「たまにはいいだろ」

制服を着てラウンジに降りると、岳羽が馨を待っていた。
今日は朝練がないから、馨と一緒に行こうと思って、だそうだ。
順平はいつも遅刻ギリギリらしい。テストの日にもかかわらず、だ。
結局3人で登校することになった。周りから見たらかなり珍しい組み合わせだろう。
登校時間はみんなたいていバラバラだからだ。

馨と一緒にラウンジに降りてきたことを、岳羽はとくに詮索しなかった。
だが、「そっかそっか、うまくいったんだ!よかった」と。
馨に向けていった岳羽のその言葉が、果たしてどんな意味なのか知ることはできない。


今日も変わらず楽しそうな馨を見ていられることを、幸せに思う。
愛することは生きること。
それを改めて教えてくれた。

2011/08/13(11/12加筆修正)
真田先輩は育ちゆえに与えられることに慣れていなそうなので奥手気味。 逆に、同じような育ちでも馨は常に人に何かを与えてきたんじゃないかと思います。そんな性格の違い。