うららかな休日
「でもほんとよかった、お休みがかぶって」
「まったくだ」
「車検もかぶるなんてね」
「・・・まったくだ」
正直、馨が玄関から一歩出ただけで彼の中の「心配数値」は少し上がった。
なんだかハラハラする。目を離せない。好きだから目を離せない、という意味とは少し違う。
今までならそうだったが、今はそれに加えて一気に重みと責任が加わった。
馨の定期検診の日に明彦の非番が重なった。それと同時に車検も重なった。代車を借りなかったことを心から悔いた。
電車で行くという。もちろん反対した。じゃあレンタカーを借りろ。大げさよ。じゃあ俺もついてく。
そういう流れの午前10時、快晴だ。
それなりに混雑した電車の中は、本当に生きた心地がしなかったというのは彼の弁。
平日の昼前という時間帯でも、都心だとあまり関係ない。3駅程度でも気が気じゃない。
「安定期」とやらに入ったらしいが、それでもなかなか心配は尽きなかった。
少しは運動した方がいい?適度?彼にとっての適度が妊婦にとっての適度じゃないくらいはよくわかっている。
だからこそ何も言えない。
やはり座れそうになく、とりあえず吊革につかまる。
同じように立つ馨は何でもないような顔をしているが、どうにも落ち着かない。
「・・・」
目の前には同じ制服を着て、同じような顔をした男子高生が5人並んで座っていた。
こちらを見ようとしない。見えていても見ようとしない。つい口を開いてしまった。
「おまえらそこに直れ!!」
大声とはいかないまでも高校生をビビらせるくらいの迫力を保って言い放った。
騒がしい車内の中でのその騒ぎに耳を傾ける人は少なかった。都会に暮らす人たちはこういう騒ぎに慣れている。
しかし当事者ともなるとそうはいかない。もちろん直れと言われた彼らはそのまま硬直する。
固まらせたかったわけじゃない。そこに直れと言ったんだ。
「おまえらの目は節穴か!?彼女の胎内にはこれからの日本社会を担う申し子がいるんだ!
ゆくゆくおまえらの老後を世話してくれるのは誰だと思ってんだ!高校生なら自覚を持て」
彼の言っていることはほとんどわからなかったが、確かに自分たちの目の前にいる女性は妊婦のようだ。
見て見ぬふりをしてしまった自分たちを叱ってくれる大人が今までいただろうか。
自分たちだって好きでかっこつけてるわけじゃない。したいことがしたいと言えず、何が正しいのかさえもわからないのだ。
5人は素直に同時に起立した。
「すんませんした!!」
「どうぞ座ってください」
「それでいい。根は素直じゃないか」
「恐縮っす!」
彼のこういうところが、嬉しいような少し恥ずかしいような。
馨はどういう顔をして座ればいいかわからなかった。
・・・
診察室から出てきた馨の顔は、とても穏やかだった。
自分が知らない顔をしている。一足先に母親の顔になった。
それはつまり、自分が父親になるという実感がまだわかないのと同じだ。
少しだけさみしいような気がした。まあ、男なんてそんなもんか。そうでも思わないとやってられない。
病院を出て、少し歩いた時だった。
「きゃっ」
「か、かおるー!!」
何かにつまづいて足元がよろけた馨を、全身全霊で支えた。その甲斐あってそれ以上体勢を崩すことはなかった。
彼の動きが早すぎて見ていた人は何が何だかわからない。現役時代以上のフットワークを発揮した。
「無事か!?」
「あ、うん。小石に引っかかったみたい」
「石だと!?」
地面に視線を落とすと、確かにつまづきやすそうな小石が。
よく見渡すとこのあたり一帯の歩道はまるで整備されていない。
病院も保育園も近いというのに、いったい国交省は何をやっているんだ・・・!!
迷いなく携帯電話を取り出した。
「俺だ。至急局長につないでくれ。は?用件?至急だと言ってるだろ、人ひとり、いや二人の命がかかってんだ!
警察庁の真田だと言えばわかる!早くしてくれ!」
怒声というわけでもない。声を荒げたわけでもない。ただいつもと違うことだけはわかった。
彼は仕事でもこんなにあせることはないんじゃないだろうか。なんとなくの、妻の勘だ。
何やら難しい言葉が飛び交っている。明彦はすぐに通話を終わらせて小さく息をついた。
仕事に口を出すつもりはなかったが、なんとなく聞いてしまった。
「どこにかけてたの?」
「国土交通省だ」
「えっ」
「局長とは付き合いがあってな。自治体を通してこの地域の道路舗装に前向きな考えを示してくれた」
「・・・」
数か月後、無事生まれた子供を連れて退院するときには、まさか本当にきれいに舗装されていることなんて今は知らない。
2011/11/25
ナナオ様からすてきなアイデアをいただきました。もしもシリーズ。(シリーズにはならない)