家族になろうよ
馨が泊まりに来る日は、その旨がメールで伝えられる。
その日の帰り道は少しだけ急いだ。
ただいま、とは言わずにそっと鍵を開けて部屋に入る。一人暮らしの俺にそんな習慣はなかったからだ。
今日は馨がいるとわかっていても、なかなか実行できない。おかえりなさい、と振り向かれて初めてただいまと言う。
馨は仕事帰りのまま寄ったのだろう、部屋の端においてある小さめの鞄からは、
勤務先である大学病院のIDカードがはみ出ていた。
俺の鞄を受け取ろうとする手を遮って、そのまま抱きしめた。少しだけ消毒液のにおいがする。
こういう中途半端な生活を続けてきた。同棲なんてしていない。
「悪かったな、待たせて」
「ううん、いいの」
すでに日付は変わっていた。
用意してあった二人分の夕食は鍋の中で冷めていた。
急いだにもかかわらず、だ。挨拶代りの抱擁をほどいて、馨は背を向ける。
「食べてきた?」
「いや」
「じゃああっため直すね」
「馨」
「ん?」
「明日一緒に区役所に行ってくれ」
小さめの鍋が乗っているガスコンロに火をつけて、馨は再び俺の方を向いた。
「いいけど、何、仕事?私が行っていいの?」
「おまえがいないとだめだ」
「そうなの?」
「婚姻届だから」
え?でも、ん?でもない。
驚いたような動じないような顔をして、馨は固まっている。俺はそのまま続けた。
「大学を卒業したら結婚しようって、言ったのは俺の方だったのにな」
「・・・」
「悪かったな、待たせて」
帰ってきた時と同じ台詞を言った。
悪かったな、待たせて。最初の言葉も、本当はこの意味だった。
「というか、覚えてるか?」
「・・・、うん。予約。予約っていうか、あれって婚約だよね」
「ああ」
「忘れるわけないじゃない・・・」
「そうか」
「・・・」
「結婚しよう」
あえてその場を動かずに、待った。目はしっかりと彼女を見据えている。
一瞬の沈黙。馨はぱっと下を向いて目を泳がせ、顔を赤くした。そして両手で顔を覆う。
細い指の隙間から、赤い瞳はチラリとこちらを伺った。目が合い、つい口元が緩む。
おいで。発音することなくそう口を動かして、皮手袋をはめたままの手を差し出した。
軽い衝撃とやわらかい髪の感触、少しの消毒のにおい。あれほど当たり前だった香水の香りは、もうしなくなっていた。
細い体を抱きとめて、手袋を外してそのまま落とす。そしてさっきよりもきつく抱きしめると、その分体は密着した。
今度は耳元で、同じように言う。結婚しよう。
間髪入れず、はい、という小さな返事が腕の中から聞こえた。
「明日は大安だし」
「うん」
「天気もいいみたいだ」
「うん。・・・あ」
「なんだ」
「これからは、毎晩一緒に寝れるの?」
「ああ」
「たまにじゃなくて」
「そうだな」
「じゃあケンカも増えるね」
「そうだな」
「でも嬉しい」
「俺もだ」
結婚式は控えめにとか、ドレスの色とか、子供の話とか、苗字が変わるとか、
そうして抱き合ってぽつぽつと話していたら、
後ろの鍋の香ばしいにおいは焦げ臭いにおいに変わっていった。
2011/12/14
単品ですが、内容的には「僕たちの勝敗」の生存ルートの続きだったりします。