蝶々結び


どうしようもなく好きなのに、名前を呼ぶのすらためらってしまう。
触れたいのに手は引っ込んでしまう。最初はその矛盾に戸惑ってばかりだった。



つきあうっていうのは何をすればいいんだろう。
好いた惚れたという話がまさか自分の身に起こるとは。 そう思ってふと周りを見てみる。楽しそうに笑顔で手をつなぎながら歩く男女。 あれが「つきあう」の形なのか。同じようにすればいいのか。俺はあんな風に笑えない気がするが・・・。 思えば俺は何も知らない。本当に。デートなんて「つきあう」以上になにをすればいいのか想像さえつかない。 それにしてもだ。この手の雑誌には頼りたくなかったが・・・。真新しく手の付けていない表紙をぱらりとめくる。 ちなみに屋久島での「勝負」にどうしても納得がいかず購入した雑誌は、ものの見事に役に立たなかった。
あなたは自分の言動で周囲に笑いを起こすことができますか。ユーモアが大切です。
その通りにイメージトレーニングをしたところ「理事長か俺は!?」という結果になった。もう二度とこんなものに頼るか。俺は俺のやり方で生きていく。 そう誓ったはずなのだが。
「・・・、”メル友からホテルまで、狙ったあの子を惚れさせるモテ男の完璧フローチャート”・・・って、違う!!」
どうしてこうも低俗なんだこの手の雑誌は!?こんなこともあろうかと数種類用意した甲斐があった。2冊目を開いた。
「”読モ20人の失恋体験、俺たちはこうして立ち直った”・・・・、・・・・、これも違う!」
縁起でもないものを見てしまった・・・。最後の頼みの綱、3冊目。
「この冬オススメデートコース、彼女のタイプ別特集・・・。これか」
やっとまともな記事を発見した。どうやら付き合っている彼女のタイプによってモデルコースが異なるようだ。 なるほど、奥が深い。さっそく読んでみることにした。
タイプ1、守ってあげたくなる妹タイプ・・・、ああ、これかもしれない。
タイプ2、外が大好き!アグレッシブタイプ・・・、これも当てはまるな。
タイプ3、不思議な魅力、天然タイプ・・・、・・・・これもだ。
「全部か!?」
どういうことだ、一つにくくれないなんて。そうだ、馨がいろいろ兼ね備えてるのがいけないんだ。 このままだと3コースすべて回らなければ・・・確実に予算オーバーだな・・・却下だ。 今日一番のため息をついて、雑誌をすべて閉じた。大変なんだな、「つきあう」のは。

・・・

一緒に帰るのは珍しいことじゃない。 ただ今回は確実に違っていた。もう先輩後輩じゃなく、彼氏彼女として一緒に帰るのだ。 この違いがこれほどまでに大きいとは・・・。 どこかぎこちない。以前の自然さはどこにいった。自然な距離も自然な会話も今はなぜか意識しすぎてできない。 彼女の目に、そんな俺はどう映っているのだろうか。さぞ滑稽だろう。俺は今、俺自身を見たくない。 具体的にどう不自然かといえば、まず空気だ。会話が一切ない。じゃあ、行くか。はい。校舎内でのこのやり取り以降、俺も彼女も言葉を発しない。 もうモノレールを下りて駅を出たというのに、だ。そして距離。手を伸ばしても触れられない距離になっていた。俺が離れているのか彼女が離れているのか。 目を合わせられない。顔はまっすぐ進行方向を向いたままだ。これじゃあいっしょに帰ってる意味がない。ああクソ、俺は何をやってんだ。 無意識に険しい顔になっていた。少し離れた隣から視線を感じる。久々に目があった。赤い瞳は控えめに俺を見上げている。
「な、なんだ?」
「あ、いえ、別に・・・」
彼女はぱっと下を向いてしまった。再びいたたまれなくなる。
「あ、すまない、その、少し緊張して・・・」
この俺が言いよどむなんて。語尾をあいまいにするなんて。考えられなかった。 こんな自分は受け入れがたい。そう思ったが、同時に新鮮でもあった。 いや、自分のことは問題じゃない。隣にいる彼女のことを考えることが一番の課題だ。 顔が熱いのを意識しながら、もう一度隣に目を向ける。やはり遠慮がちに、しかし頬を染めて同じように俺を見ていた。 それがかわいくて、つい口元が緩む。あきらめたように小さく息をついてこう言った。
「あまり見るな」
「なんでですか?」
「なんでもだ」
そうしてぎこちない、短い会話を続けるうちに距離は自然と狭まった。 触れようと思えば触れられる。そんな、いつもの距離に。 そうすると次のステップに進みたくなる。ぎこちなさがとれたのなら、手をつなぎたくなる。 自然とそうしたくなるのだ。ただそれを自然に実行に移せるほど俺は「つきあう」に慣れていない。
そもそも「手をつなぐ」なんていうアクションは日常生活に必要ない。恋人同士の特権ともいえる行為だ。 小さな子供が母親に手を引かれるのとはわけが違う。それすら経験のない俺にいざ実行しろなんて無理な話だ。 ぎこちなかった会話はすぐに止まり、再び沈黙が訪れる。しかしいたたまれなさはなくなった。 最初のぎこちなさは必要なステップだったのだ。これからが本番だ。手を取るなんて1秒でできる。造作もなく。 しかし緊張のあまり取り損ねたらカッコ悪いなんてもんじゃない。一晩中サンドバッグに向かっても足りないくらい後悔するだろう。 ふり払われたら。嫌がられたら。いやその前に手袋を外さなければ。ど、どのタイミングで・・・? 思考回路はパンク寸前だった。だから目の前の電柱にもまるで気づかなかった。
「先輩、前!前!」
その声に気づいた時には「ゴッ」という音と共に額に鈍い痛みを感じた。この程度の衝撃には慣れているせいか、体勢は崩さなかった。
「だ、大丈夫ですか?!」
「問題ない」
「血が・・・」
「平気だ」
慌てふためく彼女をよそに、再び歩き出そうとすると目の前にハンカチを差し出された。 優しい色合いの柔らかそうなパイル生地。少し迷ったが、受け取ることにした。 すまない。そう言って、そのままポケットに押しいれようとした。血をつけるわけにはいかない。
「だめです!ちゃんと使ってください」
「しかし」
本当に大したことはない傷だった。血もすぐに固まり止まる。
「ハンカチはこういう時のためにあるんです」
彼女は瞳をつり上げて、俺の手からハンカチを取るとそれを額にそっと押し付けた。 その近さに先に気付いたのは俺の方だ。歩道の端で、電柱のそばで、俺たちは何をやってるんだろう。 色の白い細い手首が目と鼻の先にある。そのすぐ向こうにはやわらかそうな茶色い髪。 こうして一歩踏み込まないとわからない香水の甘いにおいに、胸がいっぱいになった。 視線を下に落としてふと目が合う。彼女ははっとしたような顔をして俺から飛びのいた。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「いや・・・いいんだ」
なにがいいんだ。謝られるようなことはなにもしていないのに。 俺も彼女も、きっと同じような顔をしてうろたえていた。さっきから鼓動がうるさい。 寮はもう目の前だ。この先を左に曲がって少し歩けば、そこはもう俺たちの帰る場所だ。
「・・・ありがとう」
「えっ」
「もう血は止まった」
「・・・はい」
汚れてしまったハンカチを彼女の手からそっと取ってポケットに突っ込んだ。 新しいのを買うから。だからまた一緒に出掛けよう。その気持ちを今口に出すことはできなかった。 代わりに手を差し出す。皮手袋を片方とって。
「・・・その」
「はい」
「またぶつかるかもしれないから」
「・・・」
「手をつないでくれないか」
このセリフを言うのにどれだけのエネルギーを要したか。 一日分のカロリーを消費する勢いだ。恋愛は減量にも効くのか。 彼女は――馨は俺の言葉に一拍おいて小さく頷くと、慌てて手のひらをスカートにこすり付けた。 俺はそれを黙って見つめる。差し出された俺の手に、ほのかに汗ばんだしなやかな手が重ねられた。 繋がれた手を下におろして歩き始める。馨もそれについてきた。 鼓動はさっきよりもうるさい。それでも離したくはなかった。指先を動かすと、それに反応したように弱い力で握り返してくる。 それがどんなに嬉しくて、幸せだったか。たったこれだけなのに。ふと隣に顔を向けると、馨は恥ずかしそうに笑った。
寮に着くまであと5分もない。校門を出たときからこうしていれば、とふと思う。いや、それでも短いと思うかもしれない。 ひとつ、またひとつと馨を知るたびに、俺はどんどん贅沢になっていった。

2011/12/21

真田先輩の半分はピュアで出来ています。残り半分は筋肉で。真顔で電柱に激突するのは天然さんの通る道です。