最短距離


「馨」

驚いてパッと顔を上げた。
予想外だったから。その言いなれない、聞きなれない呼び方に。
「あ、・・・いや、いいだろ、こういう時くらい」
その時の私は、彼に困ったようにそう言わせてしまうような顔をしていたのだろうか。 ばつが悪そうに目をそらして、落ち着きのない手は口元を押さえている。その顔は赤かった。 「こういう時」、すなわち二人きりの時。私が先輩の「彼女」になってから、まだ日は浅かった。 嫌なわけじゃないです。むしろ嬉しいです。でも少し恥ずかしいんです。だいすきなその声で名前を呼んでくれることが。 どれも違うしどれも本音だ。でもどれを言っても気持ちが伝わる気がしない。

「・・・、馨」
今度は呼ばれるというよりも、確かめるようにゆっくりと発音された。私はどうしたらいいかわからない。 彼の部屋の小さなテーブルで向かい合って、全く頭に入らない参考書を広げて硬直するしかない。
「いい名前だな」
語尾が優しく緩められた。どうにも恥ずかしくて、表情がゆがんでしまう。きっとぜんぜんかわいくない。 かわいいと思われるような照れ方なんて私は知らない。
「響きもきれいだ」
ほめられている、ていうのはわかる。ならなんて言えばいいんだろう。ありがとう。少し違う。 単純に嬉しい。すきな男の人に、すきだと言われるのは。 それから少しだけ沈黙が流れる。先輩は口を閉じて教科書をめくっている。ただその視線は明らかに文字を追っていなかった。

「・・・・、明彦」
呼びかけでもない、疑問符がついたわけでもない。小さな声で、その名前を口にしてみた。 落とされていた視線は私に向けられる。目を合わせるのは照れ臭かった。
「あ、うーん、先輩って、つけた方が・・・いいかな」
思わずパッと視線をそらして目を泳がせる。おかしいな、手汗がすごい。
「いや、」
ふ、と笑った声が聞こえて、手元の教科書がパタンと閉じられたのがわかった。
「呼び捨てでいい」
「・・・はい」
「不思議だな」
「え」
「不思議だし新鮮だし、嬉しい」
「・・・」
「馨が俺のそばにいてくれてよかった」

想像してほしい。お互いこんな状態で、試験勉強なんてできるだろうか。 沸騰したままの頭で、論理的思考は正しく働くだろうか。
「おまえが学年首席で助かった」
「え?」
「切羽詰ることないだろ」
それは事実だ。1日くらいおろそかにしても、極端に成績が下がることはたぶんない。 先輩が何を言いたいのか全く分からなかった。
「だから、・・・」
ただ黙って、うるさく響く心臓の音を無視して、耳を傾けるしかなかった。
「今日一日、おまえの時間を俺にくれないか」
日付が変わるまで、あと3時間弱しかなかった。
「もし10位以下に落ちたら責任とるから」
どうやって、なんて聞き返せるほどの余裕はもちろんない。 ただ先輩はこういう冗談を言える人じゃない。たぶん本気だろう。
「そばにいたいんだ・・・馨」
今まで呼ぶのをためらってきた分を埋めるように――愛おしげに呼ばれる。二人の間の小さなテーブルが邪魔で邪魔で仕方がなかった。 立ち上がってそばに行くのも遠回りな気がした。 腰を上げて、テーブルを回り込むように体を伸ばして、腕も伸ばした。――控えめに。 その腕をとられて、ぐっと引き寄せられる。やっとそばに行けた。 背中に腕を回す前に強く抱きしめられる。こうして身動きが取れなくなるほどきつく抱きしめられるのは、なんだか好きだった。 ぎゅうう、という衣擦れの音。感じる体温。心地いい圧迫感。こうして触れ合うのはまだ数えるほどだけど、そのたびに満たされる。
「好きだ・・・本当に」
「・・・」
「離したくないくらい」
「・・・、先輩」
胸に抱かれた私の頭に、先輩の頬が押し付けられる。もういっぱいいっぱいだった。 私も同じくらいの、いやこれ以上の気持ちをどうにか伝えたいのに。与えたいのに。
「もう・・・みんなの前でも、槇村、なんて呼べないな」
小さくついたため息には、含み笑いが混じっていた。
「隠し通せるほどの気持ちじゃないからな」
上気した頬に手を添えられる。少しひんやりした感触が肌に嬉しかった。そうして降ってきたやさしいキス。

目を閉じて、感じる幸福な浮遊感。
そんなことはありえないのに、この世界に二人きりになったような気がした。

2011/12/25
時間はいくらあっても足りないのが高校生の恋。