恋愛協定


「マジで!?」
夏休みを直前に控えた昼休み、教室の一角で一瞬のざわめき。 近くにいた真田は眉をしかめる。そこから湧き上がるのはいつもの笑い声というか、 珍しいものを目にしたような歓声。話の中心の男子生徒は得意げだ。
「くっそー、先を越されたか」
「ラブホかー!いい響きだ」
「しかも年上引っかけちゃうとか」
「引っかけられたんだろ?」
「で、で、で!?どうだったのよ」
「聞いちゃう?それ」

声のボリュームは先ほどより一瞬大きくなって、すぐにひそめられた。・・・うるさい。それ以上の感情は真田にはなかった。
「あそこっていっぱいあるけど、おまえどこ行ったの」
「シャル・ド・フルール」
その名前を聞いて意図に反して過敏な反応をしてしまったわけだが、案の定、彼らに一斉に振り向かれた。 のどに詰まった購買人気メニューの焼きそばパン、あと半分以上残っているのに。一気に食欲がなくなった。彼らのうちの数人が真田に声をかける。
「どしたの?」
「・・・別に」
それ以外は話が盛り上がっている。
「ああ、あそこか!外装見る限りきれいだよな」
「中は?」
「いい感じ。ちょい古いけど。部屋に大きい鏡があってさー」
「マジで!?それってあれだろ?あれだよな!?」
男子最悪ー、というさげすみの女子の声が教室の端から聞こえた。 確かにここは男子校じゃない。だが「こういう話」を一切するな、というのは無理な話。 それにしてもだ。彼らのたたみかけるような会話内容からどうしても先日のことを思い出してしまう。 先日の満月、すなわち特別課外活動部の作戦日。「トリッキーな敵」どころじゃない。冗談じゃない。 いろいろ耐え切れなくなって席を立った。顔はさっきより険しくなっていることに、真田自身は気づかない。

(・・・忘れたいことを思い出させやがって)

廊下のうだるような暑さの中、カツカツと歩幅を広げて屋上に向かう。 色の白いこめかみに汗がにじんでいるのは、暑さのせいかそれとも感情のせいか。 相変わらず顔も知らない女子生徒が視線を向けてくるが、いつものようにうっとうしいと感じる余裕さえない。 いくらシャドウの精神攻撃を受けたからと言って、あれは彼らしからぬ失態だった。自分もそうだが、一つ年下のリーダーにも。
自分が裸同然で浴室から出てきた時の、彼女のあの顔。忘れたくてもどうしても忘れられない。 真っ赤な瞳を大きく見開いて、それに負けないくらい耳まで真っ赤に染めて、それはいつもの彼女からは考えられないような無防備な姿だった。 正気に戻るまで何があったかは知らない。それでも、こうして手に意識を集中すると、なんとなく柔らかい感触がよみがえってくるような気がした。 そんな自分がとんでもなく低俗で愚かなような気がして、その感触を振り切るように拳を握った。 これじゃあ彼女を侮辱してるのと同じだ。とっとと忘れたい。記憶も事実もあの時のどうしようもない感情も。 廊下の曲がり角で、有里と鉢合わせた。計算されていたような、完璧なタイミングで。
「・・・真田先輩」
「有里」
真田よりも少しだけ背の低い有里は、両手にたくさんの「戦利品」を抱えていた。先ほど真田が食べていた焼きそばパンもその中に入っている。 その他おにぎりデザート紙パック飲料。いったいこんなにたくさんどうしたんだ。 そう聞くまでもなく、「全部食べますよ」というあっけらかんとした言葉が返ってきた。そしてなんとなく屋上に連れ立った。
天気がいいのに誰もいない。確かに昼食を炎天下でとろうなんて物好きは少ないかもしれない。夏のじりじりと差すような日差しを避けるために、日陰になるベンチを選んだ。有里は早速おにぎりに手を付ける。
「なあ有里」
「はい」
「こないだの、その、作戦なんだが」
「はい」
「・・・おまえは岳羽と、一緒にいたんだろ」
「ええ」
「・・・」
特に美味しそうに食べているわけでもなく、淡々と口に運んでいる彼の表情は、変わらなかった。この話題を出してもだ。 こんなに動揺している自分が馬鹿のようだ。それとも有里は自分なんかよりもよほど女性に免疫があるのだろうか。 腹を割って話すほどの仲ではないが、普段の彼を見ていると、男女分け隔てなくつきあっている。
「大変でしたよね、あれは」
「・・・」
「俺、気づいたらベッドにいたんですけど」
有里は2つ目のおにぎりの包装をほどきながら、何のためらいもなく先日の作戦日の詳細を語り始めた。 あの時はとても話せるような状態ではなかったから、こうして聞くのは初めてだ。
「頭ぼーっとして、いろいろ思い出した時にゆかりがシャワーから出てきたんですよ」
「・・・」
「タオル一枚で。そのまま抱きつかれました」
「・・・」
「そして殴られました。アッパーですよ、アッパー。一瞬お花畑見えましたね」
感情を込めることもなく、朗読するように淡々と。彼はそんな状況においてもこんな調子だったのだろうか。それはそれですさまじい精神力だ。
「先輩は?馨とだったんでしょ」
「・・・、まあ」
当然だが話を振られる。 有里には対人関係の男女の境がないらしく、親しい友人は女子でも下の名前で呼んでいる。 だがこうして他の男が、苗字ではなく、彼女の唯一無二の名前を口にしていると、なんだか妙にひっかかる。 抜け目ないトレーニングメニューの中に、なにか見落としがあるような、計算が狂っているような、そんな感じ。 だがそれを口にするわけにはいかない。真田は努めて冷静に答えるしかなかった。
「俺達と同じかんじでした?」
「・・・そう、だな」
「殴られました?」
「いや・・・」
「よかったですね。まあ馨はゆかりみたいにがさつじゃないですから」
「それは・・・岳羽に失礼だろ」
「褒めてるんですよ」
「そうなのか?」
こうして他人と話していると、時々話についていけなくなることがある。それは主に細かい恋愛表現。まったくさっぱりわからない。
「まあでも・・・さすがに動揺しました」
そうは見えないのだが。相変わらずな有里の表情を見ているとそう思う。
「ゆかりのこと、何とも思ってないわけじゃないですから」
その時初めて有里の表情が変わったことに気付けたものの、やっぱりそれが何を意味しているかは理解することができなかった。
「それは・・・どういう意味だ」
「ああいう風に不本意な形でチャンスが巡ってきても、ちっとも嬉しくない」
どんなに注意深く耳を澄ましてみても、論理的思考を働かせてみても、彼の前後の言葉には脈絡が見当たらなかったし、やっぱりさっぱりわからない。
「まあ俺はゆっくりいきます。俺にはそっちの方があってる」
「・・・ああ」
何をゆっくりいくのかわからないまま返事を返した。

「なんでそんな話を?」
いつの間にかすべての食事を終えていた有里は、ごみをビニール袋に突っ込みながら真田にそう問う。 彼からしたらそれは当たり前の疑問だ。しかしその疑問に、「それらしい」答えが見つからなかった。 だからそのまま答えた。「なんでだろうな」と。
「・・・リーダーは手ごわいと思います」
「なにがだ」
「真田先輩並みに鈍感ですしね。敵も多い」
そろそろ何がわからないのかさえわからない。俺は何を話しに来たんだ?
「じゃ、次体育なんで」
有里は静かに腰を上げた。彼のこの無駄のない動きに、真田は無意識に感心している。
「ああ、すまなかったな、付き合わせて」
「いえ。というか先輩も意外と人並みなんですね」
普通に聞けばそれは嫌味なんだろうが、彼が言うとそのまま本音に聞こえる。
「なんというか、安心しました」
「・・・安心」
「はい。やっぱ完璧な人っていないですよね」
それが自分に向けられた言葉だとは思わず、一般論として解釈した。
「当たり前だろ?完璧なんてありえない」
「確かに」
有里は口の端を小さく上げて笑う。こういうところ、かわいいよなあ、この人。

有里の背中を見送って、真田も屋上を後にする。もうチャイムはとっくに鳴っていた。特に急ぐこともなく階段を下りながらふと気づく。 この階段を上っていた時に感じていたわだかまりのような感情が、きれいさっぱり消えていたことに。

2011/12/28
あのラブホイベントは、簡単にスルーしていいものじゃないと思うんだ。