Found Me
洵がいなくなった。楢崎さんも無気力症になった。
夜の綾凪総合病院の一角は、不穏な空気が立ち込めていた。
今の俺たちはなにもできない。だから大人に――真田さんに説明を受けるしかない。
それは納得いくものではなかった。
「他に方法がなかった」
真田さんは瞳を伏せて、俺と目を合わせようとはしなかった。
「これで・・・稀人たちの潜伏先がほぼ特定できるはずだ。
洵の力は拒絶し合うペルソナの複合体を鎮めることができる。今すぐに命を脅かされることはない」
最後のその言葉に、抑えていた不安や憤りがあふれだしそうになる。拓朗も俺の気持ちを察したように、後ろから声を荒げた。
「それっておとりってことじゃねえかよ!」
病院内で大声を張り上げても、それを注意する人はいない。真田さんも戌井さんも、居心地が悪そうに黙っている。
今になって初めて、大人と子供の違いを分かったような気がした。
真田さんは眉をしかめて説明を続けた。俺たちにというより、自分に言い聞かせるように。
「――人がペルソナを弄ぶことで重ねてきた歪みと、更なる歪みの可能性のすべてを一刻も早く絶たねばならない。そのためには」
「知るかよそんなこと!!」
そうだ。知るかそんなこと。
大きく一歩を踏み込んで、真田さんの胸ぐらをつかんだ。
「洵に・・・結祈に!もしものことがあったら、どうしてくれるんだよ!」
身長差を埋めるように詰め寄り、鋭い視線を絡め取る。しかしすぐにそらされた。――裏切られた。そう思った。
「神郷く・・・」
俺が拳を振り上げたのと、茅野の小さい声が耳に届いたのは同時だった。
人を殴ったのは初めてだった。じんじんと痺れる腕。よろける足。乱れる呼吸。
全力で体重をかけたのに、真田さんは体勢を崩すことはなかった。それがどんなに――悔しかったか。
すると病室から伊藤さんが出てきた。きっと今の騒ぎが耳に届いたのだろう。
明らかに「殴られた」とわかる真田さんの顔を見て、伊藤さんは驚くこともなく苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「おまえの兄貴からも・・・一発食らった気分だ」
今度はしっかりと俺を見据えて、真田さんはそう言った。その顔はつらそうだった。
重く冷たい空気が、沈黙を守った。
・・・
「・・・慎たちは」
「タクシーで寮に帰しました。もう夜遅いですから」
「そうか」
誰もいない夜中のロビーは、昼間よりも広く感じる。その端のベンチに腰掛ける俺に、戌井は缶コーヒーを差し出した。
「それ。冷やした方がいいですよ」
「問題ない」
左頬は少し腫れている。威力はたいしたことはなかった。けれど、学生時代に受けてきた、どんな拳よりも重く痛かった。
戌井は黙ったまま差し出した手を引っ込めて、缶コーヒーを自分の口元に運んだ。
「参事官、あんたわざと殴られたんじゃ」
壁にもたれかかったまま、伊藤が声を濁して聞いてきた。
答えるつもりはなかった。ただ自分に言い聞かせるように――大きくうなだれて、気づいたらこう言っていた。
「汚れ役はすべて買って出るつもりだったが・・・自惚れだったな。俺は何一つ、代わってやれない」
拳を握りしめ、視線を足元に落とす。戌井が小さく息をついて、俺の隣に座った。
「僕たちが目指すのはペルソナの亜種の根絶。そしてそれを悪用した悲劇を終わらせる」
「・・・、ああ」
「誰かがやらなければならない。そうでしょう」
「ああ」
「あなたがいつも僕に言っていた言葉です。真田さん」
短い沈黙が流れる。それを破ったのは伊藤の携帯電話だった。
彼は俺達に目配せをして、病院の外へ出て行った。二人きりになり、ロビーはさらに広く感じる。
「真田さん」
返事はせず、続きを促した。
「どうして馨さんを一緒に連れてきたんですか」
その言葉に顔を上げると、戌井は俺を見据えていた。その表情はいつも通りに見えて、少し違う。
「できれば東京に残ってほしかった。だが決めたのは馨だ」
「この街にいるだけで危険なんです。10年前の同時多発無気力症と同じようなことが起こるかもしれない。巻き込まれる可能性だってある」
「わかってる・・・それくらい」
「人の命に重いも軽いもない。けど僕は、馨さんに何かあったらあなた以上に、死んでも死に切れない」
神郷の気持ちはよくわかっていたはずだった。俺にも美紀がいたから。
けれど結局はこうするしかなかった。洵を囮にするという俺の決断を――神郷が知ったら慎と同じように俺を殴るだろう。
誰だって、自分の大事な人を巻き込みたくなんてない。
戌井の言うように、人の命に重いも軽いもないが、せめて大事な人だけはと、思ってしまうのは仕方がないことだと思う。
いや・・警察官失格か。
富山に単身赴任すると馨に伝えたとき、彼女の返事は予想外だった。私も行く、と。
もちろんペルソナ関連の事件だとは言えない。論拠のない説得は無駄だった。
「一緒にいられる時間は限られてるんだから、少しでもそばにいさせて」。そう言われて、俺は何も言えなかった。
守りきれないかもしれない。けど死んでも守らなきゃならない。
同時に終わらせなければならない。体がいくつあっても足りない。
「馨は特A潜在レベルだ。元、だがな」
「・・・はい。それは僕もよく知ってます」
戌井は一瞬瞳を伏せた。彼女をリーダーとして戦った、遠い昔を思い出すように。
「俺やおまえと同様に、彼女にはペルソナ耐性がある。少なくとも直接的な被害は受けない」
「それは・・・そうですけど」
「余計な心配はいらない。最初からあきらめたりする必要がどこにある?俺たちにはやることがあるだろ」
腰を上げて皮手袋をはめ直す。情けなく、体は少し重かった。
「終わらせる。俺たちの手で」
「・・・はい」
病院の入り口には、伊藤刑事が立っていた。その隣には車が横付けしてある。
歩き出すと、後ろを戌井がついてくる。迷いがないと言えば嘘になる。
しかし少しだけ、吹っ切れたような気がした。感謝の意味を込めて戌井にアイコンタクトを送ると、すべてわかっているような微かな笑顔が返ってきた。
・・・
帰宅したのは深夜1時を過ぎていた。
リビングに明かりはついていない。そのまま寝室へ向かった。
ヘッドボードの明かりがついている。部屋は薄暗いが、馨は眠っているようだ。
起こさないように、静かに着替えたつもりだったのだが。
「・・・おかえり」
ベッドに入るころには、馨は起きてしまっていた。
「悪い。起こしたな」
「いいの。ごはんは?」
「大丈夫だ」
「そう」
ベッドの中で少しの距離を開けて、お互い顔を向ける。
「そう」と言った馨の顔は、ほっとしたような、さみしいような、いくつかの感情が混ざっていた。
そういうのがすぐにわかる。夫婦でよかったと思える。
馨は毛布の中から手を伸ばして、俺の左頬にそっと触れた。
「・・・腫れてるね」
「ちょっとな」
「そう・・・」
そこに触れられるのはつらかったし、うしろめたい気もした。
どうしようもなくなって、その細い手首をそっと取って顔から離した。
「馨」
ふと名前を呼ぶと、いつも通りに続きを促す視線が返ってくる。
「今でも出せると思うか?」
「なにを?」
「ペルソナを」
馨にとってはもう10年も前の過去のことだ。
この話題を出したのも、10年ぶりだ。
もちろん俺は答えを知っている。出せるわけがない。ペルソナ発現には年齢制限がある。
俺と馨は定年A潜在という分類にあたる。それは変えようのない事実だ。
なぜこんなことを聞いたのか。深い意味はない。それでもやっぱり、馨は俺の任務に少なからず気づいているはずだ。
あまりに突然の話題に馨は少し考えて、いつも通りの口調でこう言った。
「無理だと思う」
「・・・そうか」
「召喚器もないしね」
「まあな」
「でも消えてはない」
「・・・」
「と、思う。守ってくれてる気がするの。私のペルソナ・・・オルフェウス」
人ひとり分開いた二人の隙間の真ん中で、馨は俺の手をそっと取る。その手はあたたかかった。
「明日も早いの?」
「・・・ああ」
開いた隙間を埋めるように、馨は俺の胸に顔を寄せた。それを受け入れるように、俺も細い体を抱き寄せる。
毛布をかぶった中から、くぐもった声が聞こえた。
「ねえ」
「なんだ?」
「富山までついてきたの、やっぱり迷惑だった?」
抱きしめた彼女の表情をうかがい知ることはできない。
言葉を選んでも、意味がないと思った。
「・・・いや」
「少しでも、支えたかったの」
「・・・ああ」
「だって夫婦じゃない・・・」
「・・・ああ」
背中に回されていた細い腕に、力が入った。それに応えるように、より強く抱きしめる。
「ああ」という短い返事でしか気持ちを伝えられない自分に、やっぱり今日も嫌気がさした。
それ以上に、伝えきれない想いは溢れていった。
馨がいてもいなくても、俺はこの事件に関わっていたし目的は達成するつもりでいた。
それでもやっぱり、馨がいたからこんなにもつらいし、救われる。
10年前、すべてを失くしても見つけられるものがあると知った。それが馨だった。
だから俺はもう何一つ、あきらめたりはしない。
2012/01/04
トリニティソウル後期ED曲をイメージしたSSというリクエストをいただきました。
21話という終盤のシーンを用いたわけですが、このあたりは見ていてつらかった・・・。