キス


キスするということが、つまるところどういった感覚なのか――。
正直まったくわからなかった。想像さえつかない。漫画やテレビドラマの中のキスシーンをいくら見てみても、だ。
鼻がぶつかりはしないだろうか。本当にそんなに気持ちいいんだろうか。

訪れた真田の部屋で、馨は思いを巡らせる。なぜならそういう空気だった。
彼氏の部屋で二人きり。することなんて一つしかない。そう決めつけてしまうあたり、やっぱり自分も本音は「したい」んだろう。
女の子なのに。そう思うと罪悪感と好奇心が同時に体中を支配する。

好きで来たというのに、まるで葬式のような静けさ。やたらと響く鼓動の音は、自分のものかそれとも隣の彼か。
彼のものだとしたら、自分と同じ気持ちでいてくれることが嬉しいと思った。したいなら、受け入れたい。拒む理由なんて一つもない。
わざとらしく開いた距離がもどかしいような、助かるような。どうしてもっと、普通にできないんだろう。
どうしてこんなに異常に緊張するのか。のどはカラカラで圧倒的に水分が足りない。なのに汗は吹き出てくる。

意味もなく正座をした膝の上で握りしめた拳の中は、汗がにじんでいた。
下を向いたまま視線だけを横にずらす。正座こそしていないものの、同じように緊張したような姿勢で座る彼の姿がちらりと見える。
こういう時、男に主導権を握ってほしいと思うのは反則だろうか。でも自分からキスを迫るなんてありえない。
慣れてるならまだしもファーストキスだ。
ありえなくないけどありえない。要はどうしたらいいかわからない。絞り出すように口を開いた。

「せ、せんぱい・・・」
「なっ、なんだ」
「あの、お水とかあります・・・?」
数分ぶりに発した声はかすれていた。乾ききった口内のせいだ。
視線を彼の足元に固定したままやっとの思いで伝えると、真田は慌てたように立ち上がった。
「ああ、すまない・・・気が利かなくて」
「あっ、ぜんぜんそれはいいんです!ただ、少し、緊張・・・しちゃって・・・」

自分の要求が思わぬ受け取られ方をしていたことに驚いて、思わず馨も立ち上がる。
どうにもちぐはぐだ。うまくいかない。本当はもっと段取り良く、有意義に過ごしたかった。こんなぐだぐだな自分では、きっと愛想をつかされる。
それが怖かった。それは真田も、同じだった。お互いがそれに気づくことは今の時点ではありえない。

部屋の隅の小さな冷蔵庫を開く彼の背中を、馨は立ち上がったままじっと見つめる。こうして少し離れてみると、やっぱり彼は自分にとって特別な存在なんだと実感する。
「・・・すまない」
「えっ」
「ミネラルウォーターくらいしかない・・・」
「それでいいです!むしろいいです!」
「そうか。悪いな」

馨の返事に内心ほっとして、ペットボトルを片手にもといた場所へ戻った。馨も同じように腰を下ろす。
ふと気づく。さっきよりも――距離が縮まっている。わざとじゃない。それは二人が同時に思った。
ならなぜだ。こんな、肩がぶつかるような距離。
頬が熱くなるのを感じながら、真田は手にしていたペットボトルを彼女に差し出す。冷蔵庫から出したばかりだというのに、ぬるいような気がするのはなぜだ。
ありがとうございます、という声に小さく頷いて、区切りをつけるように息をついた。
細い指は幾度かしくじりながらキャップを開けると、中の水がまっさかさまになるほど傾けながら、ぐい、とのどに流し込んだ。

「お、おい・・・」
いつもなら「いい飲みっぷりだな」などと心の底から感心すればいい。だが今は違う。そういう空気ではない。
水をすべて飲み干して、馨は口元を抑えながら「ごめんなさい」とだけ言った。弱々しく困り果てたような顔は、直視できないほどにかわいかった。
ただその思いを行動に示すなんてことは、もちろんできるはずもない。抱きしめることさえ、まだ拙い。

「・・・水といえども一気飲みは内臓に負担がかかるぞ」
身体をひねって彼女と向き合い、空になったボトルを受け取る。
「・・・」
「・・・少し落ち着け」
思ったことを言っただけなのだが、それがいけなかったようだった。女はいつどうやって機嫌を損ねるかわからない。
それはすべての男に共通する懸念事項だということを、真田は今日思い知る。
馨はぱっと顔を上げて、真田に迫るように前のめりになった。

「落ち着いてます!!」
「いや・・・しかし」
「落ち着いてないのは先輩ですよ・・・っ」
「・・・」

それは、確かに。一理あるというか、その通りだ。自分を棚に上げようとしても、それはやはり逃げだった。情けない。
許しを請うように、そっと馨を抱き寄せた。距離を縮めて、腕を伸ばして、背中を支えて引き寄せる。たったこれだけのプロセスでも、慣れないことは難しかった。
触れた身体は制服越しでも柔らかい。それを確かめるように、手のひらに力を込める。
香水に混じったにおいを大きく吸い込んだ。それだけで胸がいっぱいになる。この体勢からは、表情をうかがい知ることはできない。

拒絶されることを、初めて怖いと思った。それだけ本気なのだと思うと、何があっても失いたくないと思った。――今度こそは。
だから必要以上に慎重になる。それが結果的に彼女を傷つけるようなことになっても、気づかない。
お互いの気持ちを確かめるすべなどないと思っていた。しかし今なら、それができる。そう思った。

「・・・さっきからずっと、こうしておまえに触れたかった」
ありったけの気持ちを込めるように、そっと耳元で静かに囁く。その声は自分でも驚くほど、臆病だった。
「・・・、嫌じゃないのか?」
抱きしめる力を少し緩めた。返ってきた反応は、予想外だった。緩めた反動のように、馨の方からきつく抱きしめてくる。
心地いい圧迫感は、それだけで胸を満たした。初めての感覚だった。誰かに抱きしめられた記憶など、思い当たらない。
「馬鹿言わないでください」
彼の胸に押し付けられた唇は不満そうにとがっている。
発した声はくぐもって、何かを必死に伝えようとしている。
「私だってずっと・・・、こうしたかったんです」

行き場のなかった小さな手は、広い背中をしっかりをつかんでいた。真田にはそれがどうしても信じられなかった。
自分がこんなに幸せで、いいのだろうか。その思いしかなかった。

馨が顔を上げると、お互い目があった。確かめるように、じっと見つめる。その距離はまだ、近いとも遠いとも言えなかった。
一つ乗り越えるたびに、もう限界だと思う。
しかしそんなことはなかった。自分の中の「恋愛」というカテゴリのキャパシティは米粒程度だと思っていたのに、広がる一方だった。

その緋色の瞳をこんなに近くで見ることなんてなかった。やっぱりきれいだ。どんな色よりも。
手は自然と彼女の頬に添えられて、指は目元をなぞった。薄い皮膚に少し驚く。馨が彼女になってから、驚くことばかりだ。

「好きだ・・・馨」

こうして気持ちをストレートに言葉にできる自分の性格に少なからず感謝した。言わなきゃわからない。それをつくづく感じる。
馨はどうだろう。嫌なことは嫌と言う。それは知っている。しかし自分の本音を、俺のように言いたいように言うだろうか。
正直まだわからなかった。まだ知らないことはたくさんある。それがもどかしくてしょうがなかった。
なら俺は馨の何を好きだというのだろう。知らないことの方が多いのに。そんな疑問に全力で答えを探しても、何も浮かばなかった。
一瞬だけ不安がぶり返した。しかしそれは本当に一瞬だった。

「私も・・・すきです、先輩のこと」

その瞳はまっすぐ真田をとらえていた。恥ずかしいのか、泣きそうだ。
告白も、お世辞にもスムーズとはいかなかった。前進と後退を繰り返してやっと伝わった。
こうして同じことを繰り返していくのだろうか。――いいじゃないか。たまらなく愛しい。
そう思うと、口元がつい緩む。馨は自分が笑われたと思ったのか、眉をしかめた。

「悪い・・・違うんだ」
脱力したような口調に、張りつめていた緊張が少しだけ和らぐ。馨もそれを感じたのか、こわばっていた肩がゆっくり下がる。
頬に添えていた手を下にずらして、桜色の唇をそっとなぞった。先に進むことに臆病なばかりではいられない。
指先で、初めて触れた唇は思っていたよりもずっと柔らかかった。きっと自分のものとは比べ物にならないくらい。
本当に、人間として同じ個所なのだろうか。そう思うくらい。
ゆっくり、本当にゆっくりと顔を近づける。すると目に映る彼女の顔にピントが合わなくなる。これがキスの距離だと実感した。
「・・・、キスしても、いいか?」
そう聞いたのは自然な成り行きだった。気持ちは伝えなければわからない。たった今学習したことだ。応用しなければならない。
馨は顔を動かさないまま、小さく「はい」とつぶやいた。
「そういうのは、言わなくてもいいんですよ」。そう言おうかとも思ったが、水を差すのはやめておいた。
――いや、余裕がなかった、というのが正解か。初めて感じる距離に、どうしようもなくドキドキしていたから。

自分よりも長いんじゃないかと思うくらいのまつげ。嫉妬するくらいきれいな肌。文句のつけようがないほど整ったすべてのバランス。
そして切なげに細められたきれいな瞳。言葉にこそ出さないものの、求められているのがわかった。それをどうにかして抑えているのもわかった。
したいなら、受け止めたい。そう思うのに、体は震えている。唇が触れ合う直前に、そっと目を閉じた。


かすめるだけの、ほんとうに触れただけのキスだった。触れ合った面積がいかに狭くても、キスはキスだ。
それを感じると、急に恥ずかしくなる。元に戻った顔の距離が少しだけさみしかったが、それよりも照れくささの方が勝っていた。それはお互いに。
反応が過敏だったのは真田の方だった。顔は馨よりも赤い。抱きとめていた体を離して、わざとらしくない程度に顔をそむける。
離れた体は急激に体温を失っていくように感じた。

「・・・。あまり見るな」
そう言われると、見たくなる。それが人間心理というもの。何も男に限ったものじゃない。
離れた距離を縮めるように、馨は腰を上げて少しだけ前進した。それを真田が阻止する。
「こら」
「だって・・・」
「もう・・・いっぱいいっぱいなんだ」
言葉通りの表情だった。馨はそれを見て、愛しさがこみあげてくる。同時に体の奥がうずくのがわかった。
それに気づかないふりをしないと、恥ずかしくて死にそうだった。でも、それでも。
「先輩」
真田に寄りかかるように体重を預ける。彼はそれを受け止めてくれた。身体の距離は縮まった。
次は顔をそっと近づける。さっきと同じように。ピントが合わなくなったところで、そっと口を開いた。
「・・・もう1回したい」
発した声は震えていた。こんなに勇気を振り絞ったこと、最近あっただろうか?
男である彼の気持ちが、なんとなくわかったような気がした。自分から何かアクションを起こすのは、ものすごく勇気がいる。

彼の方から距離を縮められたのがわかって、目を閉じる。さっきと同じような、「初めての」キスが返ってきた。
やっぱり同じように、すぐに離される。
少し、違う。嬉しいんだけど違う。ああ、なら自分からすればいい。でもそんな勇気までは持ち合わせていない。
もっと深く触れ合いたい。もっと長い時間していたい。どうしよう。どうしたらわかってくれるだろう。こういうのって他力本願?
いや違う?恋愛においてどっちが先手を打つかって重要?そうでもない?

頭はぐるぐると巡っていた。鼓動の音はさっきよりも大きく響く。相変わらず、それが自分なのか彼なのかわからなかった。
触れた唇には余韻が残っている。やわらかくてあたたかい。しかしそれはすぐに消えてしまった。意を決した。
「もっと・・・、だめ、ですか?」
口にした瞬間、恥ずかしくて死にたくなった。自分がこんなせがむような言葉を口にしているなんて信じたくなかった。
目の前の瞳は大きく見開かれている。ずいぶん驚いたように。しかし後悔している暇なんてなかった。

目の前が真っ暗になる。同時に唇をふさがれた。さっきとは違う。触れ合う面積は格段に広くなっていた。
それをさらに広げるようについばまれる。角度を変えられる。そのたびに、呼吸をするのが難しかった。
初めての感覚に戸惑う間もなく、そっと控えめに、しかし確実に彼の舌が入ってきた。
思わずびくつく体を、しっかりと抱きしめられた。動けないくらいに。
「んっ、・・・・ッ」
意に反して漏れた声は、自分のものとは思えないくらいの声色だった。恥ずかしい。気持ちいいけど、これ以上は恥ずかしい。
もう何も、考えられなくなっていた。侵入を許した口内で、水音を立てながら舌を絡ませる。
こわばっていた体は一気に力が抜けて、文字通り骨抜きにされる。わざとなのか偶然なのか、そのまま床にやさしく押し倒される。
馨にはそれがわからないくらいに、心も体もとろけていた。

ふと唇を離される。名残惜しそうに、ゆっくりと。そっと目を開いて視界に彼の顔を映す。その時初めて、自分が組み敷かれていることに気が付いた。
固い床の感触が背中に感じられる。しかし今はそれすらも、嬉しかった。

「・・・今日はもう遅いから・・・帰れ」
真田は体を起こして、顔をそむけたままそう言う。馨は横たわったまま、そんな彼を見つめた。
それが本音じゃないってことは、充分すぎるほど伝わる。彼は嘘が下手だった。しかしそれを問い詰めることはしない。
気持ちがわからないわけじゃないから。「でも、」とだけ言いとどまって、口をつぐんだ。
一瞬の沈黙。さっきまでの夢中になっていた時間に比べれば、途方もなく長く感じる沈黙だった。
馨は息をついて体を起こす。スカートのすそは、少しだけまくりあがっていた。

「勢いに任せたくない」
それは自分に言い聞かせているようだった。こちらを向いてはくれない。
「・・・準備だってできてない」
その言葉に、二通りの意味が考えられた。詮索するのはやめた。おそらくどっちもだろうから。
無意識に伸びた真田の腕は、馨に触れることなく途中で下ろされた。代わりに視線を絡めとられる。その瞳は切なげだった。
「大事にしたいんだ・・・おまえのこと」

言いたいことは充分すぎるほどに伝わってきた。その気持ちは嬉しかったし、もどかしかったし、安心した。
この人でよかった。付き合ってまだ日も浅いのに、心からそう思う。それは貴重なことだと思う。
自分だって名残惜しいが、彼はそれ以上だろう。馨にはそれがなんとなくわかった。

「わかりました・・・今日は帰りますね」
「・・・ああ」
そう言って立ち上がると、軽い眩暈を覚えた。それほどまでに、夢中になっていたのか。そう思うと未練がましくなる。
持参していた荷物を持って、彼に触れることなくドアノブを回した。
「・・・先輩」
ドアに手をかけたまま振り向く。真田は視線で続きを促した。
「あの、うまく言えないんですけど」
そう言ってどもる彼女を、本当ならそのまま抱きしめてしまいたかった。本当は離れたくない。ずっとそばにいたいのだから。
「私・・・はやく先輩のものになりたいです」

その言葉に、さっきまでの我慢と決意がいとも簡単に崩されるような感覚に陥る。むしろ、いや逆に。体は固まってしまっている。
「だから、あれです!変な遠慮とか、いらないですから!私だって先輩と同じくらいそういうことしたいんです」
「・・・」
「〜、お、おやすみなさい!」

勢いよく開いたドアは、外気を思いっきり部屋に取り込む間もなく勢いよく閉められた。
部屋の中に彼女はもういない。そこらじゅうに残った香水の残り香だけが、胸をしめつける。

「・・・つくづく反則だ、あいつ」

ため息をつく気力もない。
取り敢えず今日の夜は、寝れそうもない。

2012/01/09
ファーストキスをここまで引っ張れるのは、この二人しかいないと思う。ああもうほんとにもどかしい。けどそこがすき。