pure soul
例えばうちの神郷署長や、隣にいる参事官のように上の立場にいる者だからこその葛藤を、俺は感じていた。
私利私欲に動く者ばかりじゃないと知る。しかしどちらにしろ気が合わないことは確かだ。考え方が違うからな。だが今は、そんな場合じゃない。
状況は佳境に入ったと言える。俺たちは諸悪の根源の居場所を突き止めていた。
真田はノートパソコンの画面をにらみつけながら、「伊藤さん」と前置きをして、自身の見解を俺に話し始める。
「稀人達の状況が悪化するのを待ち、索敵させることも考えていましたが、今の洵が用をなさないと知ったら逆上しないとも限らない・・・」
「今の」神郷洵はペルソナを出せない。彼自身が俺たちにそう言ってきたのだ。それを承知で洵は囮になった。
彼は画面から目を離し、考え込むように顎に手を当てる。俺はそれを黙って待った。
「出発しましょう」
ああ、待ってたぜその言葉。しかし順調には、いかなかった。
突然部屋に入ってきた戌井の緊張した顔から、それを感じ取らずにはいられなかった。
「真田さん!・・・中村さんが見えています」
「中村?誰だそれ」
聞きなれない名前に隣の真田に目をやると、いつもの表情とは少し違っていた。
・・・
「派手にやりすぎだよ真田君」
上座に座る中村という男は真田の上司だった。いかにも融通が利かなそうないけ好かない顔だ。自分の権力つまり決断力に、絶対の自信を持っているような。
その合い向かいに真田、その隣には副署長。俺と戌井は二人の後ろで立っていた。
俺は戌井に目配せする。やっぱりな、と。戌井は小さく頷いた。
このタイミングで上が出張ってきたってことは、そういうことだ。参事官は解任、作戦は中止―――。
思わず唇を噛む。顔は見えないが、おそらく真田も同じような表情だろう。奴が自分の任務に絶対の使命感を持っていること、それくらい俺にだって十分わかっていた。
中村は目の前の俺たちの表情などどうでもいいような顔をして口を開いた。
「君の任務は超常精神体の研究開発より派生する事案の調査と情報統制・・・言うなれば機密の保護だ。それ以上でも以下でもない」
「要するに隠蔽だろうが」
俺がそう言うと、中村は目線を少し上げて俺を視界に入れる。要約してやっただけだ。
すると中村はそのまま俺に向かってこう言った。その表情から、すべて自分の思い通りに動かそうという思惑が垣間見える。
「君はずいぶん前から熱心にリバース事件のリークを試みていたようだな」
「あんたら・・・奴らの居場所を知っていやがったのか」
「そこはまた管轄者が別になる。そう単純なものであれば、彼も苦労しない」
中村の視線は再び真田に戻された。彼は意を決したように口を開いた。
「子どもが拉致されています。尋問は受けますので特編部隊の迅速な配備を!」
そのとおりだ。中村以外の全員がそれを望んだ。しかし軽やかにかわされる。
上層部ってのは肝心な時に何もしないくせに、本当に理論武装だけは達者でいやがる。
今回だって傷ついている当事者は俺らの年齢の半分程度の子供なんだ。
「拉致については君がそうなるように仕向けたのだろう?
希少種となった潜在者を集めて戦わせることもしかりだがそこまでやるとは思わなかった。
警察官である前に、良識ある大人としてあるまじき行為ではないのかね?」
たらたら小言を聞いてる時間はねえ。つい声を荒げた。
「今まさに異常が起きてんだ!すぐ向かわねえと」
するとそれに続くように、真田が勢いよく立ち上がる。ソファでない椅子だったら、十中八九倒れていた。
「九条の研究成果だけを持ち帰るつもりですか!」
奴が感情的になる姿を見たのは、これが最初で最後だった。
しかし気持ちをぶつけたところで何一つ変わらなかった。
「許可するまでここを動くな」
中村と戌井が去った部屋の中、拳を握りしめる真田の顔をただ見つめるしか、俺にはできなかった。
・・・
目が覚めたとき、天井でここは病院なんだとわかった。隣には守本がいた。
「痛むところはありませんか?・・・神郷くん」
守本から、洵を助けに行ったが結局は取り返せなかったこと、茅野も拓朗も無事で今は尋問を受けていることを聞いた。
俺もこの後、警察の尋問を受けるらしい。伊藤さんたちは――今も動けない。大人は大変なんだと、こんな形で実感したくはなかったな。
「看護師さん・・・呼んできますね」
そう言った守本の顔は、元気がなかった。それが気になって、嫌な予感もした。
ふと病室のドアがノックされる。白衣を着た医者の後ろについていた看護師は、見覚えのある女性だった。
記憶をたどって一致したところで、思わず「あ」と声が出る。彼女も俺に、気づいたようだった。
「あら、あなた・・・」
神郷慎くん。少し高いきれいな声で名前を呼ばれて、にっこり微笑まれた。真田さんの、奥さんだった。
診察を済ませた医者はすぐに出ていった。大丈夫、異常はないよ。そう言われて。
ただ看護師さん・・・馨さんは部屋に残った。二人きりになる。さっきまで守本が座っていた椅子に座って、彼女は俺に目を向ける。
無関心でも興味深そうにでもない。例えるなら友達に向けるような自然な視線だ。俺は取り敢えずこう言った。
「あの、たぶんそろそろ警察の人が来ると思います」
「警察?」
彼女は何も知らないようだった。ということはまずかったのだろうか。真田さんの家族なら、てっきり何もかも知っていると思ったのだが。
俺が「ええと」と困っていると、彼女は小さく笑って話をうやむやにした。
「ああ、うんいいの。私は関係ないし、それまでには戻るから。迷惑かしら」
「いえ!そんなことは」
「よかった」
そう言って本当に嬉しそうに笑う笑顔に、真田さんを殴った時の、彼のつらそうな顔がちらついた。
俺は言いようのない気持ちにならざるを得なかった。
・・・
警察署内で明かした夜は、いつもより長く感じた。
日が高く昇っても一向に外部からの連絡はない。副署長も伊藤も、いらだちを隠せないようだった。しかし今は、辛抱強く待ち続けるしかなかった。
慎たちはどうなったのか。洵は無事なのか。戌井はうまくやっているか。
思いをいくら巡らせてもきりがない。2時間程度の仮眠をとったが、その時に見た夢は今の俺に重くのしかかった。
夢というか過去の――と言ってもごく最近の記憶。
帰ったのはいつも通り深夜だった。馨はまだ起きていた。そんな馨に、俺は優しくも気遣いもしてやれなかった。
「着替えに帰っただけだ」
薄暗い寝室で、衣服を整理しながら自分に言い聞かせるように言った。馨に顔を向けることはできなかった。
どうも、どうにもうまくいかない。そんなことは当たり前なのだが、つい口に出してしまった。
「・・・上に行けば行くほど腐ってる」
言い捨てるように、独り言のように。独り言にしては声が大きかったし、馨も聞き流してくれそうになかった。
弱音を吐くなんて情けない。それを馨に当たるのも情けない。正直この頃は、精神的にどうにかなりそうなくらいだった。
「俺一人じゃ何も変わらない」
先ほどの言葉に結論を言い足すようにそう言って、鞄のふたを閉めた。部屋を出ようとする俺の背中に、馨は声をかけた。「明彦らしくない」と。
振り返りたくても顔は見れない。中途半端に体をひねって顔を背け、部屋から出れずにいた。
「納得できないなら自分で変えればいいじゃない。・・・いつだってそうしてきたじゃない」
わかりきったことを改めて聞かされて、気持ちのいいものではなかった。馨の言いたいことは心のどこかでわかっていた。
俺ならそれができると。励まされているのだと、痛いほどわかった。それでも、素直に受け止められなかった。
「何も知らないで好き勝手言うな」
言った後には後悔しか残らなかった。
一瞬の沈黙の後、馨が口を開く。
「――そうね、わかった」
諦めたようなその声を、できれば聞きたくはなかった。
それから思うようになった。
俺はどこまで自分を貫き通すことができるのか。もうあの頃のように、自分の気持ちに一途ではいられない。
正しいことがすべて正しいとは限らない。いくら主張しても、苦汁を飲むことの方が多かった。
今回だってまるで同じだ。肝心な時に俺は何もできない。
馨がそばにいてくれれば、あと少し、この先も、やり切れると思っていた。
その甘えが今の弱さなのか
それとも守るべきものの存在が俺を強くしているのか
わからなかった。いくら考えても、わからない。
夢から醒めたときにはもう日が昇っていた。俺の肩には、いつの間にか簡易毛布がかけられていた。
視線を横にずらすと、ソファにもたれかかった二人が辛そうな姿勢で眠っている。
体を起こして目じりに感じる違和感。指で拭うと、少し濡れた。一粒だけ、涙が頬を伝っていた。
それから2時間、3時間。半日ぶりにドアがノックされ、3人の手元に自身の携帯電話が返された。
伊藤と副署長は顔を見合わせる。
「終わったってことか」
伊藤の声と同時に着信音が鳴り響く。3つ並んだうちの、俺の赤い携帯だった。――慎からだ。
「もしもし、慎・・・無事か」
その言葉に、慎はいつもと変わらない返事を返す。俺は心底安心して、心配そうに俺の合図を待っている二人にアイコンタクトを送った。
慎の声と二人の安堵のため息が同時に耳に入ってくる。俺は慎から、俺たちが知り得ない事の一部始終を聞いた。
「わかった。九条の研究についてはこちらでなんとかする。・・・本当にご苦労だった」
そう言うと、慎のどちらともいえない返事が返ってくる。俺はすかさずこう続けた。
「そしてすまない。・・・許されるとは、」
思っていない。慎は最後まで言わせてはくれなかった。
「大丈夫です。ていうか、俺の方こそ殴ったりして、すいませんでした」
その言葉に胸が痛くなる。こんな時にまで人を気遣う奴があるか。
ぐっとこらえるように瞳を閉じて、口をつぐんだ。
慎は思い出したように言った。
「あ、真田さん」
「なんだ」
「俺、病院で・・・馨さんに会いましたよ」
予想外の言葉だった。とっさに浮かんだ馨の顔は、いつもの笑顔ではない。
慎はいつも通りの口調で、記憶を一つ一つたどるように話し続ける。
「ほら、かなり前ですけど、病院の前で娘さんと一緒に会いましたよね」
「ああ・・・」
「看護師さんだったんですね、驚きました。あの時は私服だったし」
その時の記憶がよみがえる。だがこんな気持ちのままで、鮮明には思い出すことができなかった。
自信のない返事に、慎は何かを悟ったようだった。仕切り直すように「真田さん」と言われる。
「俺、馨さんと話しました。で・・・こんなこと、言ってました」
私は明彦が何をしてるのか知らない。知る権利もないしね。
でも間違ったことだけはしてない。それだけ言いたかったの。
慎の声と、馨の口調が頭の中で重なる気がした。
「どういう意味かわからなかったんですけど、それから少し考えて、殴ったこと謝らなきゃなって、思いました」
「そうか・・・ありがとう」
「真田さん、兄貴に少し似てますね」
「・・・そうか」
「不器用なところ」
それは認めざるを得なかった。一進一退を繰り返して、関係を、絆を紡いでいく。俺はこんなに面倒くさい人間だったか。
慎との通話を切って、寝床にしていたソファに体を預ける。体は重い。だが霧は少し、晴れた気がした。
・・・
軟禁状態が解除され、俺は綾凪総合病院に向かった。伊藤たちは署に残り、戌井を待った。
「楢崎のこと、見てきてくれ」。思えば彼が俺に頼みごとをしたのは、これが最初で多分、最後だ。
車を走らせ、いつも通りに正面玄関から総合受付のロビーに入る。
車いすに乗り、視点の合わない目をひたすら外に向けている無気力症患者の数は、相変わらずだった。
楢崎の見舞いを済ませ、茅野めぐみや榊葉拓朗の状態もこの目でチェックできた。顔を合わせるつもりはなかった。
心のどこかで、これらは言い訳に過ぎなかった。本当は馨に会いたかった。お互い勤務中だとか、そういうことはわかりきっている。
それでもこの広い病院の中で、偶然顔を合わせることができないかと、病院特有の真っ白い廊下を歩きながら思い続けていた。
もちろん帰宅すればいくらでも会える。だが今会いたい。言いたいことがある。
しかしすべての用事を済ませても、結局は会えなかった。目的なくうろうろするわけにはいかない。
キリをつけて、来た時と同じ道をたどって正面玄関へ向かった時だった。曲がり角で、感じた気配。
どうせなら願う方が、確率は高くなる。それは証明された。
「・・・」
「・・・馨」
思えば俺は馨の「こういう姿」を見たことはなかった。
アップにした髪型は変わらず、だがいつもよりしっかりまとめられている。細い手首には俺が贈った腕時計をつけていた。
両手には書類や袋。お互いに立ち止まったまま、次の言葉を探していた。
「・・・、仕事?」
わからない程度に首をかしげて、馨は明るくそう言った。
俺は「ああ」とだけ返す。メインロビーから少し離れた病棟への廊下。静まり返り、人気は少なかった。
馨は少し考えて、「大柄の楢崎さんて患者さん、警察の人なのね。私が診てるの」
その言葉に顔を上げると、馨はさらに続ける。
「背中に不可解なやけどを負った高校生の榊葉くんて子も私の担当」
「・・・」
「慎くんとも話したの」
俺は何を言えばいいのかわからない。情けないことに言葉が見つからない。
馨は一歩俺に近づいて、身長差を埋めるように顔を覗き込んだ。
「大丈夫。少しくらい派手に暴れても受け入れ態勢は整ってるから」
「な、」
「できれば最小限にね」
そう言って笑顔を見せる馨に、俺は頭が上がらない思いだった。
予想外の出来事に、意に反して口元が緩んだ。
「・・・うじうじ迷うなんて俺らしくないな」
「だから言ったでしょ?明彦らしくないって」
あの晩も同じことを言われた。馨がその時のことを言っているのだと、すぐにわかる。
その上で俺は素直に頷くことができた。
「やっぱりだめだな、俺にはおまえがいないと」
「ならよかった」
言い表せない気持ちを目で伝えて、時間だからと歩き出す。
すかさずかけられた「いってらっしゃい」は、何よりも俺の背中を押してくれた。