人生で一番焦る日


「今日の予定を」
「こちらです」
朝、出勤してこの会話はもはや空気より自然だ。
若くしてこの職位。俺を含めた自分よりいくらも年上の人間をたった一声で動かすことができる。
うらやましいと思うがそこは実力の差だと納得している。
いるんだよな、たまにこういう非凡人。本庁のキャリア組の中でも有望視されている。俺はこの人の下につけて幸せだ。

廊下を歩きながら今日の予定を確認する彼に、俺は斜め後ろから小さく声をかけた。
「真田さん、そろそろ奥様は臨月でしょう」
「ああ、だがまだ先だそうだ」
「油断しない方がいいですよ、私も不意を突かれてまさかの早産です。おかげで立ち会えませんでした」
「・・・確かにそういう可能性もある」
「まあめったにないと思いますけどね」

ふと彼の携帯電話が鳴った。いつものことだ。1時間に3回は必ず鳴る。
しかし本日一発目の電話の相手はプライベートのようだ。着信画面を見た瞬間の顔の緩みがそれを物語っている。
そして相手は十中八九奥さんだろう。こうしてそばにいて分かったのが、この人相当な愛妻家だ。表には出そうとしないが、呆れるほどの。
自分のいる場所を考慮したのか、軽く咳払いをして「なんだ、どうした」といつもの口調で話していた。大丈夫です、まだ誰もいませんから。 俺は一歩下がって、彼の電話が終わるのを待つことにした。しかし。

「なんだと!!?!?」

俺の腕に抱えていた書類を思わず落とすほどの怒声。ワンフロア下にまで届いたんじゃないだろうか。
驚いて彼を見ると、携帯を持ったその手は震えている。見ればわかるが非常事態だ。
どんな状況においても取り乱すことのない「あの」真田さんがここまで慌てるのははっきり言って異常だ。

「な、ちょ、ま、ま、待てすぐ行く今行くだから待ってろまだ駄目だ!」

ろれつが回らないままそこまで言い終わると、彼は手を滑らせて携帯電話を床に落とした。しかし拾おうとしない。代わりにポケットから出されたのは車のキー。
俺はすかさず彼に駆け寄った。ついでに床に落ちた携帯電話も拾い上げる。もう通話は切れていた。
「ちょ、どうしたんですか!?何があったんですか!」
正直、俺は最悪の事態を想定していた。誘拐。事件。事故。考えたくはなかったが、誰の身にも十分起こり得ることだからだ。
しかし。
「・・・産まれるそうだ」
「は」
青ざめた顔で、彼は震える声でそう言った。俺はどうリアクションしていいのかわからない。
硬直する間もなく彼は自分の鞄を俺に押し付ける。衝撃で少し後ろによろめいた。
「3,4時間で帰ってくる!それまでおまえが繋いでおけ」
「えぇ!?」
「資料もパソコンもIDも全部入ってる!権限はすべて委譲する」
「何言ってんですか無茶ですそんなの、ちょっと真田さ」

彼は台風のように過ぎ去った。あまりに突然のことに、俺は放心する。
ふと窓の下を見ると、黒塗のレクサスが「ズギャギャ」とまるで漫画のような音を立てながら敷地内を去っていくのが見えた。
ああ・・・あれって真田さんの車だったよな・・・。

・・・

どうして警察官の私用車も緊急車両指定を受けられないんだ。理不尽にもほどがある、俺は本気で憤る。
いくら焦っても出せるスピードは限られているし、下手をしたら俺が捕まる。子どもの顔を見るまでは何としてもそれは避けねば。
しばらく走ったところで渋滞に引っかかる。最悪だ!!
窓を開け先を見渡すと、警察車両が多い。車を移動させ、足で現場に向かった。
その先では検問を実施していた。この非常事態に・・・!!パトカーに乗り込む警官を捕まえて問いただす。
なんですかあなたはと聞かれて名乗ると、彼の表情は一気にこわばった。
「おい、今からどこへ行く」
「署に戻ります」
「ここを管轄してるってことは港東署か」
「そうですが」
ビンゴだ。馨のいる病院は港東署の目と鼻の先だ。
「よし俺も乗る」
「はっ?!」
「緊急事態だ!急いでくれ」
「りょ・・・了解です」

・・・

信頼できる部下にすべてを任せ、協力的なパトカーに乗り、こうしてなんとか病院までたどり着く。
さすがに全行程全力疾走は体にこたえる。くそ、学生時代のようなトレーニングができる時間があればこんなことには・・・。
情けないことに息は上がり汗だくだ。しかしそんなことに構ってはいられない。巨大な迷路のような病院の中で、産婦人科病棟に向かった。
走るたびにそばにいた医師や看護師に注意され、いなくなればまた走る。それを繰り返してやっと馨のもとにたどり着いた。

すると看護師が数人やってきて、わけのわからない衛生用エプロンのようなものを着せられて分娩室に放り込まれる。
そこはまさに戦場だった。男の俺からしたら戦場だ。
「さ、ほら手を取ってあげて、一緒に!」
そう言われて握りしめた馨の手は、異様に熱く、汗で滑る。
「一緒に」と言われて、病院で行われていた「もうすぐパパママ学級」なる講習に参加した時の知識をひとつ残らずひねり出す。
仕事を切り上げてまで参加した甲斐があったというものだ。しかし。

「お父さん落ち着いてください!」
「呼吸はあなたに合わせるんじゃなくて奥さんに合わせてあげるんです」
「そ、そうか、そうだな!」

本当に思う。一生のうちであんなに焦り狂うことはもうないだろう。
しかし無事に生まれてきてくれた。あれほど感動することも、ないと思う。

2012/01/16
はいリクエストいただきましたー!!す、すごく書くの楽しかった笑っちゃったよ(笑) あきひこさんはとてもいいパパになりそうです。