必要以上
「美鶴、ちょっと出てくる」
「おい美鶴!おまえ俺の雑誌どこにやった」
「無理するな美鶴。風邪気味だろ」
要は不満だった。
真田先輩が「美鶴」と呼ぶたびに、心にちくちくととげが刺さる。
トモダチが「美鶴」でカノジョは「槇村」?
本当に照れくさそうに「馨」と1回だけ、私を呼んでくれたきりだ。
私も「みつる」って名前ならよかった。なんて馬鹿なことを初めて思った。
嫉妬するなんて恥ずかしい。でも私は美鶴先輩が大好きだし、少し違うのかもしれない。
彼が発音する「美鶴」に、特別な意味がないこと、そんなの充分わかっていた。
あるとき、はっきりと思っていることを伝えると、彼は珍しく慌てふためいた。
「いや・・・その、別に美鶴を特別扱いしてるわけじゃ」
困らせてしまった。でも今のところ、彼にこんな無防備な顔をさせられるのは私しかいないと信じたい。
先輩は口元に手を当てて、ぎこちなく視線をそらしながら言いづらそうに口を開いた。
「ただ・・・癖になりそうで」
意味はすぐに理解できなかったけど、癖になりそうというのなら、先輩のそういう顔を見るのも癖になりそうで怖い。
宙を泳いでいた視線は、決意したように私を捉えた。そうやって見つめられると、身動きができなくなる。
「名前で呼ぶことに慣れてしまったら、必要以上に呼びたくなる」
それだと、迷惑だろう。彼はそう言い足して、再び視線を外した。頬は赤いままだ。
胸の奥がほのかに熱い。あたたかいんじゃなくて熱い。ああもう、どうしてこの人は、こんなに。
「私が先輩にされて迷惑な事なんて一つもありません」
胸の奥の熱がだんだん顔まで上昇してきて、耳まで赤くなるのがわかる。それを隠すように肩をすくめて距離を縮めて、そっと手を取った。
「・・・、そうか」
「なんでもないときに名前を呼んでくれるって、迷惑じゃなくて嬉しいんですよ」
「そうか・・・」
2回目の「そうか」は、やわらかくゆっくり発音された。ぎこちなく触れていた手は一度離れて、彼の方から強く握りしめてきた。
その確かな感触と体温に、思わず目頭が熱くなる。いつの間にこんなに好きになっていたんだろう。
「なら今日は、ずっと一緒にいよう」
「えっ」
「名前で呼ぶ練習をする」
「練習って・・・」
「一晩中繰り返していれば自然に身につくだろう」
「・・・」
「あ、いや、一晩中って別に変な意味は」
こうして自分の発言に弁解を加えるのは彼の癖らしい。
確信犯のようでそうでもないらしい。そういうところもかわいいと、最近思うようになった。
努めて冷静に「ないんですか?」とだけ言うと、彼は観念したように咳払いをして、「・・・さあな」とため息つをついた。
「残念」
からかうように、でも本気で言う。
「・・・お、おまえな・・・」
赤い顔は、本日2度目のため息を吐き出した。
それから先輩は、寮でも学校でも、誰の前でも、私を「馨」と、彼曰く「必要以上に」呼んでくれるようになった。
私はそのたびに、彼のことを好きになり続けた。
2012/02/22
真田先輩は、特に親しい人は名前で呼ぶ人だと思います。シンジに美鶴に順平。