今夜、君を抱いて


馨が恋人になってから、最初はただ嬉しいと思った。
最近はそんな純粋な思いよりも、胸が締め付けられることの方が多くなった。
初めてキスをしたあの日から、それは顕著になった。

・・・おかしい。おかしくなったんじゃないか俺は。
一度精神科に診てもらった方がいいのかもしれない。いくら肉体の健康を保っていても、気持ちがこんなに不安定じゃどうしようもない。
私生活――毎日こなすメニューやリズム――に支障をきたすほどではないが、馨の顔を見るたびに小さなもやもやは降り積もった。

「意外とかわいいんすね、真田サンて」

順平が真顔でそう言うのを、俺はただ眉をひそめて聞くしかなかった。
かわいいってなんだ。男が言われて嬉しくないフレーズの上位に必ず入っている言葉じゃないか。

「男なんてみんな変態なんすよ。多かれ少なかれ」

だとしたら俺は「少なかれ」の方に入りたい。というか必須事項だろ。義務だろ。
健康に害をきたさない程度、必要最低限の性欲さえあればそれでいい。それでよかった。そうしてきたじゃないか。
これはプライドなんだろうか。そういう自分を認めるのはひどく不愉快だった。
そんなのは建前だと、とっくに気づいていた。要は、馨に嫌われたくないだけなのだ。

・・・

「私・・・はやく先輩のものになりたいです」

あの日、そもそも馨がこんなことを言ったのがいけない。
強引とも言えるようなキスをして、嫌がられる方がよっぽどマシだった。
なのに馨は俺を煽った。

変な遠慮とか、いらないですから。

あれは本音だろうか。俺は嘘はつけないが、馨はどうだろう。
俺に気を遣ったのかもしれない。やさしさ故の嘘だとしたら、俺は馨を責められない。
キスとセックスは違う。全然違う。馨はそれをわかって言ってるのだろうか。
難しい。恋愛は難しい。こうして悩むのは何度目だ?ばかばかしい。どうしてこうも合理的にいかないんだ。

欲しくて欲しくてたまらないのに、手を出したらすべて終わる気がする。情けない。本当に情けない。
恋愛なんて性欲の言い訳だと言ってしまったらそれで終わりじゃないか。

なら気づかなければよかったのか?好きだという気持ちに。今さらだ。もう遅い。もう離せない。
大切にしたいのに壊したい。味わったことのない葛藤だった。



その時は突然やってきた。
そういうつもりじゃなかった。馨は俺の部屋に、美鶴の言伝を伝えに来ただけなのだ。
何のための携帯電話だと言うと、「顔を見たかったから」と見せる笑顔。
人の気も知らないで、俺に断りを入れてから遠慮がちに部屋に入る。
いつものことだった。いつもなら少しだけぎこちない空気の中、手を引いて迎えればいい。
美鶴より短く岳羽より長いスカートも、それまで意識して見ることなんて有り得なかった胸のふくらみも、無意識に目が追っていた。

馨も緊張しているのだと、顔を見て分かった。
いつもならそれをかわいいと思える余裕があるのに、今は皆無だ。
それどころかもどかしく腹立たしくさえ思える。
部屋の中、ドアの前に向かい合って立ち尽くす。空いたままの内鍵を閉めようと手を伸ばすと、馨は大きく肩を震わせた。
それが緊張からの不自然な反応だと、その時の俺にはわからない。形はどうあれ拒絶された事実は、思いのほか大きなダメージを心に負わせた。

「・・・」
「・・・ごめんなさい」

何に対してのごめんなさいなのか。考えれば考えるほどネガティブになって、それは態度に表れた。

「用がないなら帰れ」
「えっ」

もちろんそんな顔を――本当に信じられないような、純粋に驚いたような顔をさせたいわけじゃない。
けれどもうキャパシティは限界突破、少し広がったと思ったらすぐに縮まった俺の許容量。
やっぱり俺に恋愛は向いていないらしい。

馨は表情までこわばらせて、何も言わずに突っ立っていた。
追い打ちをかけて帰らせるしかない。

「その気もないのに・・・からかうな」

諦め半分、下を向いて吐き出したその言葉は、床に落ちることなく宙を舞った。
叩かれたのだ。頬を。
驚いて目を見張る間もなく、馨の怒鳴った声が耳に響いた。

「どうしてそう自分勝手なんですか!?いつもそう!
二人のことなのに、一人で私の気持ちまで決めつけて・・・さすがに私だって傷つきますよ」

語尾は震えて消えていった。ジンジンする左頬を押さえながら顔の位置を元に戻すと、馨は怒りながら泣いていた。
俺は知っている。馨は冷静に見えて、一度気持ちが切れると別人のようになる。わがままで、横柄で、身勝手な。
その部分を嫌いではなかった。それもひっくるめて好きになったなんてきれいごとだが、馨の一部であることはちゃんと認めている。

顔に衝撃を受けることが人一倍多い俺でも、馨の前では子供同然に無防備だった。遠慮のない平手打ちだった。
口の中は切れていないが痕は残るんじゃないだろうか。それでも目は、覚めた気がした。

「・・・悪い」

ためらうことなく腕を伸ばして馨を抱きしめる。
さっきまでのわだかまりがどうのこうのという場合じゃない。俺はどこまで馬鹿なんだ。

「悪い。・・・俺が悪かった。だからもう一度殴ってくれ」

返事はなく、抱きしめた胸の中でポニーテールが小さく横に振られた。
小さくため息をついて、体を離す。このため息は自分への呆れだ。
うつむいたままの馨の顔は、子供のように拗ねているように見えた。
見えない何かに押しつぶされそうになるほどの後悔を感じた。
しかしもう遅い。やるべきことはほかにある。

「殴ってくれ」
再びそう言うと、馨は顔を上げて俺を見上げた。
いつも思う。赤い瞳はいつでもまっすぐだ。

「嫌です」
「・・・そうか」
「かわりにちゃんと、話してください」
「話」
「ちゃんと二人で話す時間がほしいです」
「・・・」
「今までそういうの、意識しなかったから」

言われてみればそうなのかもしれない。
付き合って日はまだ浅い。たくさん話して理解して付き合い始めたのに、それから話し合うことはぱったり減った。
不思議だ。関係が変わるだけでこんなに何もかもが変わるなんて。恋人同士というのは本当にやっかいだ。

「わかった。・・・今にしよう」

そう言うと、抱きとめていた馨の体は小さく身じろぎをした。
俺の腕から逃れたいというより、もっと寄り添うような動き方だった。

「私は、」
少し高い声には、涙の余韻が残っていた。馨は構わず続けた。
「たぶん私は・・・先輩が思ってるより全然、かわいくもないし、しおらしくもないんです」

予想外の言葉だった。何を言い出すかと思えばという感じだった。
俺が思っているより、が本当だとしても、それが馨にとってどう感じられるかはきっと永遠の謎だ。

「ふつうの女の子より・・・、・・・いやらしいのかも」

少し遠慮がちに小さくなった声が紡いだ言葉は、さらに予想外だった。
馨は今の言葉の補足を一刻も早くしたいというふうに、勢いよく弁解し始めた。その顔は今まで見たこともないくらい真っ赤で必死だった。

「だって、だって先輩といると例外なくドキドキして、なんか体が熱くなって・・・その、変、なんです・・・・・女の子なのに」

そのまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。けれど今耐えないでいつ耐える。
今は「話をする時間」だ。

馨の言う「変」に、俺は自分のことを思い出した。そもそも告白のきっかけは、俺が変だということだった。
苛立たしかったり、苦しかったり、変なんだ。本当にわからないでそう言うと、馨は「恋ですよ」と言った。
今は立場がまるっきり逆だ。俺は今の馨に、同じことをそのまま言ってやりたい。

「さっきだって、緊張しすぎて驚いただけです!先輩に触られて嫌なわけ・・・ないんです。
怖くないって言ったら嘘になるかも・・・だけど、それより気持ちが強いっていうか、つまり、・・・その、幻滅しました・・・?」

痺れを切らして体が勝手に動く。今抱きしめないで、いつ抱きしめるんだ?
さっきよりも強く抱きしめる。今度は遠慮がちな細い腕が背中に回された。ほんのささいな仕草で気持ちは充分伝わってきた。

「俺はどんな馨だって好きだ」
「・・・」
「むしろそういう方が好きだ」
「・・・っ」

今度は俺の「話す」番だ。
思いを言葉にするというのは、やっぱり慣れないものだ。馨を抱きしめたまま、歯切れ悪く口を開いた。
「俺だって、おまえが思ってるほど我慢強くないし、おまえ以上に、その、・・・どうしようもないことばっかり考えてる・・・」

恥ずかしくてたまらなかった。本音をさらけ出すのはこんなにも恥ずかしいのか。
「嫌われたくないから・・・抑えてた」
最後は半ば意地のような声を出すと、馨は驚いたように顔を上げる。
「嫌う?なんで?」
「な、なんでって・・・ふつうは・・・」
答えが見つからず言いよどむと、馨は再び声を荒げた。

「もうっ、女の子に何度も言わせないでください!」
今日は怒らせてばかりだ。
・・・反省しないと。
「こないだだって、今だって、言ったじゃないですか、先輩と、そっ、そういうことしたいって!
きっと私は先輩の言うふつうじゃないんです。だからもう、とにかく大丈夫です!!」

最後は早口でやけくそのようにも聞こえた。
馨にここまでさせてしまった俺が本当に馬鹿すぎて情けない。

――馨はよく、「男らしい」と言われている。順平だったり岳羽だったり、様々だ。
男よりも男らしい。それは肝が据わっているとかそういうことだ。俺もそれを今実感した。
なら俺もそれにこたえなくてはならない。体裁や恥をすべて捨てて、思いつく限りの気持ちを口にする。
こんなこときっと、今しかできない。若気の至りに数えられることになるだろう。

「俺は・・・おまえが好きなんだ」

自分でも驚くほど必死な声だった。力を込めた腕の中から、くぐもった返事が聞こえる。

「好きだから全部欲しいんだ」

馨は顔を上げて再び返事をした。くぐもっていた声はクリアになった。
「ちゃんと・・・わかってます」
そして目が合う。告白の時、そして初めてのキスの時もこんな気持ちだった。これで3回目だ。
そのたびにすれ違いと失敗を繰り返している。学習しない。二人とも。
馨も同じことを考えていたのか、自嘲気味に口を開いた。

「よかったです、話せて。・・・ちぐはぐでグダグダでしたけど、同じ気持ちで嬉しいです・・・ほんとに」

馨だったから、こんなにも大変なのかもしれない。
馨じゃなかったらこうはならなかったかもしれない。
けれど確かに言えるのは、馨以外は考えられない。それだけだ。

「・・・・・・正直に言う」

改まって言うと、二人の空気がピンと張りつめたのがわかった。馨は黙って続きを待っている。
仕方ない、行くところまで行くしかない。
「俺はこういうことは初めてだ。こんな気持ちになったのも、・・・おまえが初めてだ」

告白をしているような言葉になった。だがいい。本音だ。
馨がどんな恥ずかしそうな顔をしていても関係ない。

「だから、うまくできないかもしれない」

こうして何かと理由をつけてしまうのは癖だった。良くも悪くも。
「だから」というのは俺にとってはなくてはならない接続詞だった。
とりあえず死にそうなくらい恥ずかしかった、ああもう、・・・くそ。

「私だって、・・・初めてです。ちゃんと好きになったのは先輩が初めてだし、恋人だって、いたことないし・・・」

そんなわけでいっぱいいっぱいだった俺にとどめを刺すような馨の言葉。確信犯だろう、それ。
なんとなくわかっていたが、二人とも初めてだということが事実として共有された。やっぱり言葉にしないとわからない。
そうしないと俺は馨を疑っていたかもしれないし、逆に馨も俺を疑っていたかもしれない。まだ本当に何も知らないことだらけだと実感する。
馨は言葉をつづけた。

「ほんとの最初は痛いらしいんですけど、えと、痛いのには強いですから、頑張ります」
脈絡がないわけではないが、突然の宣言に俺は言葉を失う。
「そうだ、注射も泣いたことないんですよ!これちょっと自慢なんです」

わかった。わかったから。これ以上照れさせるな。
逆に照れない方がおかしいような空気だ。裏をかけということか。なら。

「俺も・・・頑張ってやさしくする」

自分の口から「頑張る」なんて言葉が出てきたのが意外だった。
俺の場合は頑張るというか、努力とか過程だ。努力という言葉もあまり好きじゃない。要は勝負だ。
とにかく勝負において頑張るのは前提だ。
だが馨の前では前提すら作り直さなくてはならない。骨が折れる、本当に。


「ふ・・・不束者ですけど、お願いします」
馨が小さく頭を下げた。ポニーテールはいつものように揺れる。
「こちらこそだ」
俺も笑って、同じようにした。

2012/02/26
あいまいにされがちな最後の一線の気持ちの変化をしつこく細かく書くとこうなります。「知らなかったこと」がすんなりいったパターンなら、これはうまくいかないパターン。 どっちもすきなさなはむです。