恋人
頻度は減ったと思っていた。
「・・・すまないが」
廊下。屋上。校門の前。中庭。部室の裏。教室の前。とにかくいつでもどこでもこういう状況になる。
今日は、部活の始まる前の放課後、中庭だ。周りに人はいない。
目の前には、顔も知らない女子が一人。俺が好きで、つきあってほしいらしい。もちろん即答で断った。
「そんな!これから、もっと知っていってほしいの!返事は、それからにして!」
「・・・」
たいていはきっぱり断れば、そのまま走り去ってしまう。だが、こうしてなかなか諦めてくれない女子も多い。
「無理なものは無理だ。だいたい、俺には彼女が」
「やめて!」
目の前の女は俺の言葉を遮るように、抱きついてきた。
どうしても、「彼女」とか「恋」に興味を持てなかった前とは違う。
今は大事にしたい人がいる。それを伝えようとしただけで、どうしてこうなる?
「ちょ、おい!」
「そんなの聞きたくない!わたしのほうが、ずっとずっと好きなのに!」
順平的に言えばこの状況は「お手上げ侍」だ。
お手上げどころじゃない。いい加減うんざりだ。どうして女ってのはこうも自分勝手なんだ。
視線を感じてはっとした。中庭と渡り廊下の間の通路に、馨がいた。
馨だけじゃない。横には順平も岳羽もいる。ばっちりと、しっかりと、目があった。
馨は少しだけ目を見開いて、それでも表情はいつも通りだった。・・・岳羽と順平は金魚のように口が開いている。
よく頭に血がのぼることは珍しくないが、こうして血の気が引いていくことはあまりない。
あの緋色の瞳から目をそらすことも、動くこともできなかった。変わらず目の前の女は泣きながら俺にくっついている。
馨たちとの距離は数メートル足らず。・・・馨の足なら3秒でこっちにこれるだろう。
馨がゆっくりと視線を外して、いつもと変わらぬ様子で来た道を戻っていくのと、俺にくっつく女を引っ剥がしたのは、同時だった。
彼女はやりたい放題やった挙句、走り去った。本当に、どこまでも勝手だ。
必然的に岳羽と順平がこちらに歩み寄ってくる。順平は小さくため息をついて口を開いた。
「えーと、浮気ということでよろしいでしょうか真田サン」
「な、バカ言うな!俺は」
「たとえ事故でもああいうのは男の責任です。てか最低」
言い分はシャットアウトされた。岳羽はどうも、馨がらみのことになると俺につらく当たる気がする。
「馨、かわいそ」
「・・・」
「つか、”彼女持ちの激モテ男くん”てことをちゃんと自覚して、いくつか対策たてとくべきっしょ。だからこうなるんすよ」
口をつぐんだ。何も言えなかった。
「カノジョがあんなの見たら、混乱してダッシュで走り去る、っつのがふつーなんすけどね」
「静かに歩いてった・・・よね」
「あちゃー、こりゃあよっぽど怒ってるフラグだわ」
「馨が本気で怒ったら、何するかわかんないし」
「ちょ、ゆかりッチ不吉なこと言うなよ」
二人は言いたいだけ言って帰っていった。くそ、なんなんだ今日は。
・・・
馨を怒らせたことは、これまでなかった。
だから、顔を合わせるのもためらうくらいの、ケンカらしいケンカはしたことがない。
帰り道は憂鬱だった。だいたい、馨はどれくらい怒っているのか全く見当がつかない。
・・・浮気か。ありえない、浮気なんて。だいたい馨がいるのにどうしてほかの女に手を出す必要があるんだ?
馨からしたら、あれは浮気になるのか?・・・わからない。だめだ、俺は至らない彼氏だな。
いつの間にか寮に着いていた。玄関の大きなドアが、いつもより重い気がする・・・。
ゆっくりと開けた。
「・・・馨!」
ラウンジ側からドアを開けようとしていた馨と、ばったり遭遇した。
・・・しかし。
「いやーーーー!来ないで!こっち来ないで!」
目を合わせるや否や、大音量で叫ばれた。いきなり離されたドアに指を挟むところだった。
驚いてラウンジに入ると、馨はソファに座っている美鶴にしがみついていた。
あれだ。テレビの動物番組でよく見る、恥ずかしがり屋の猿の赤ちゃんが人間にしがみついてるのと一緒の図だ。
美鶴は微動だにしていないが、状況を把握したらしく、俺の顔を見ると大げさにため息をついた。
「・・・明彦。おまえ、槇村になにをしたんだ?」
馨は相変わらず美鶴にぴったりくっついて、顔を見せてはくれない。
いつもの馨とのあまりの豹変ぶりに、美鶴はとりあえず馨の頭を撫でている。
「なに・・・って」
岳羽と順平の姿も目に入った。・・・視線は冷たい。
「はは、これが馨ッチの”怒りMAX”か・・・露骨すぎてかわいいな」
「普段めったに怒んないぶん、キレたら手つけられないと思ったけど・・・
あれなら死人出ることもなさそうね。全面拒否されるくらいで済むなら安いよね」
相変わらず、他人事のように・・・。
これは
これは謝るべきなのか?
人前で?
しかし全力で拒否されていることに間違いはない。いつも笑顔で隣にいてくれる分、これはかなりショックだ。
・・・やむを得ない!
「――馨!俺が悪かった」
馨は美鶴にしがみついたまま、反応はない。さらに続ける。
「もう、女子に呼びだされても二人きりにはならない!約束する」
ラウンジが静まり返った。部屋から降りてきた天田や山岸が状況を察して階段で固まっていたが、今はそんなことどうでもいい。
「・・・ほんと?」
ぼそっ、とした声が聞こえた。顔は相変わらず美鶴の腕の中だ。
「あ、ああ、本当だ」
「嘘つかない?」
「約束する」
「・・・」
事態は解決に向かっている。そう判断して、途切れ途切れの会話を繰り返しながら一歩ずつ馨に歩み寄った。
手を伸ばせば触れられる距離になった。美鶴を挟んで、馨が顔を上げてくれるのを待った。
「ほら、槇村。もういいだろ」
それを見兼ねたのか、美鶴が優しく促した。・・・生まれて初めてかもしれない、美鶴がうらやましいと思ったのは。
馨はやっと顔を上げた。数分だけだったが、その顔を見るのは何日ぶりかのように思えた。それだけ、切羽詰ってたんだ。
馨は、らしくなくゆっくりした動作で美鶴から離れると、そのまま俺にぶつかってきた。
衝撃で一瞬息が止まったが、しっかりと抱きしめた。・・・やっと戻ってきた。
「アイス」
「え」
「ねえ先輩、アイス食べたいな」
「・・・」
馨はいつもの笑顔でオレを見上げた。いや、いつものじゃない。・・・まだ怒ってる。
「ダメ?」
「わ、わかった。じゃあ、今から行くか」
「やった!あのね、商店街に、新しいショップができたの。そこのアイスが食べたい。
あ、あとケーキも食べたい。ホールのやつ。あと一番高いクレープと」
「わかった!ぜ、全部買ってやるから」
「わーい!・・・じゃ、行きましょう」
「美鶴・・・ちょっと出てくる・・・」
「・・・ああ」
馨に手を引かれて寮を出た。俺の背中には、言いようのない、仲間の視線が突き刺さっていた。
・・・
もう日は暮れていたが、そんなことは関係なかった。制服のまま、商店街へ向かう。
俺は口数は少ない方だが、今日はさらに言葉を選ばなくてはならない。結果無言が続いた。
しかし馨は、さっきからずっと俺の腕にぴったりしがみついたまま歩いている。
普段は手をつなぐ程度で、こんな風にべったりしたがらないのに。
商店街に到着した。とりあえず、どの店もまだ閉店時間ではない。
「まず、ええと、アイスか?」
「牛丼でいいです」
「・・・は」
「牛丼食べて帰りましょ」
馨はにっこり笑って、腕を絡ませた。
夜の海牛は比較的静かだ。いつものように、カウンターに並んで座る。
「あーあ、おなかすいちゃいました。大盛りがいいな」
馨はメニューを楽しそうに眺めている。俺は腑に落ちなかった。すっきりしない。
「ここでよかったのか?」
そう聞くにとどまった。
「はい。ちょっと、甘えてみたかっただけですから」
馨は肘をついて、小さく笑った。
「私、あれくらいで怒りませんよ?ていうか、むしろ被害者は先輩ですよねって感じです」
「・・・」
「でも、ショックだったのはほんとだから・・・ちょっと困らせたくて」
そこまで言うと、馨は言いにくそうに下を向いた。
「その、先輩に抱きしめてもらえるのは、私だけがいいな、なんて・・・」
だから、たとえ不本意でもあんな風に違う女の子が先輩にくっついてるのが、なんだか嫌で。
馨は口を濁して、そうつぶやいた。
「・・・」
膝の上に置かれている馨の手をとった。そのまま指を絡ませる。馨は驚いたように俺を見た。
「悪かった」
「・・・先輩のせいじゃないですよ」
「いや、俺のせいだ。だから、約束は守る」
「・・・はい」
すっかり暗くなった帰り道、いつも通り控えめに手をつないで帰った。
今日は散々な日だったのに、どうしてだろう。
馨のことがもっと好きになった。