スカーレット


日曜の朝、ラウンジに出ると誰もいなかった。
そういえば、岳羽も美鶴も順平も、出かけると言っていた。
槇村は昨日会っていないからわからない。
人がいないと、やたらと広く感じる。
いつも、それだけ騒がしいということか。

不思議だな、1か月前までは俺と美鶴の二人だけだったというのに。

シャドウにやられたアバラのせいで、ろくにトレーニングもできない。
たまにずきずきと痛むこともあるが、そろそろ動きたくて仕方がない。
しかし美鶴に見つかれば大変なことになる。・・・。

仕方ない、部屋で勉強でもするか。
腹が減ったらまた降りてこよう。
そう思い、部屋に戻ろうと振り返った時だった。

「・・・槇村」

階段に槇村がいた。
なぜか部屋着のままだ。いつもはまとめられている髪の毛も、ほどかれている。
それだけで印象が変わるのは、少し驚いた。

足元はふらついているようで、手すりにすがるようにつかまっている。
嫌な予感がした。

怪我のことを考える間もなく、ダッシュして階段を駆け上り、寸前のところで槇村を抱きとめた。
危なかった。この高さから落ちたらシャレにならない。

触れた腕は熱かった。
顔を覗き込むと、赤いような青白いような、完璧な体調不良。
赤い瞳は心なしか潤んでいる。視点が定まらないのか、俺と目が合わない。
体勢を保ったまま槇村の額に手を当てると、想像以上に熱を帯びていた。

「・・・お、おい!槇村、しっかりしろ」
「あ・・・せんぱい、・・・あれ、なんで階段・・・?」

体に力が入らないのか、槇村の全体重は俺に預けられている。
重くはなかったが、不安定な階段にいることは危ない。
とりあえずそのまま抱きかかえた。
ラウンジと槇村の部屋で迷ったが、上に行くことにした。


彼女の部屋の鍵は開いていた。
確かに、ふらふらのまま出てきたあの様子では仕方ないかもしれない。

一瞬ためらって、部屋に入った。
・・・緊急事態だ。自分に言い聞かせる。
ベッドに彼女を下ろしてとりあえず布団をかけた。
表情はさっきと変わらず、だ。首筋には汗がにじんでいる。

さて、これからどうしたらいいんだ。
薬か。病院か。いや氷枕か。こんなことなら、プロテインを日ごろから飲ませておけばよかった。

ふとケータイが鳴った。着信だ。
焦って落としそうになりながらも電話に出た。

「もしもし、私だ。今日は寮にいるだろう?すまないが、頼みが――」

美鶴だった。なんとベストなタイミングだ。
「美鶴!ま、槇村が熱で真っ青だ」
「は?」
「寮には俺しかいないんだ。びょ、病院に行った方がいいのか?いや、まず解熱剤か?」

自分でも驚くのだが、焦っていた。
焦りは声にも行動にも出ていた。・・・意味もなく部屋の中を往復したり。

「落ち着け!・・・意識はあるのか?」
「あ、ああ」
「だったら今のところ救急車は必要ないはずだ。熱は計ったのか?」

言われてみれば、の言葉だったが、携帯を耳に当てたまま、すぐにラウンジに救急箱を取りに行った。
箱ごと持って部屋に戻り、中から体温計を探し当てた。

「確かその体温計は腋下温式だ」
美鶴は電話口でさらりと言った。

「なっ」
「なんだ」
「い、今は耳で計るのが常識だろ!」
「仕方ないだろ、備品を一新する直前なんだ。タイミングが悪かったな」

男の俺に、槇村の服のボタンを外して腕を上げて脇の下に体温計を挟めというのか?
彼女自身にやってもらえば一番いいのだが、察するに無理のようだ。

「そ、そんなことできるか!」
つい声を荒げた。
しかし美鶴はひるむどころか勢いを増している。

「しっかりしろ、男だろう!」

いや、男だからできないんだ。
・・・しかしそんなことを言っていても始まらない。

緊急事態だ。人命救助だ。
変に意識するからいけないんだ。そうだ、俺は何を考えてんだ。

意を決した。
携帯を耳と肩の間に挟んだまま、そっと布団に手をかける。
首まで止められたボタンを一つずつ外していく。
必然的に胸元が見えたところで手を止めた。・・・限界だ。
熱のせいか、あらわになった白い肌は火照っている。

出来るだけ目を細めて、脇の下に体温計をセットした時だった。

「・・・っ、ふぇ・・・」

さっきまで目を閉じていた槇村が、顔をゆがませた。
俺はそのまま静止した。

大きな瞳からは見る見るうちに大粒の涙があふれて、
頼りない声で泣き始めた。
いつもの槇村からは、想像もつかないような姿だった。
確かに、体調が最悪だと訳もなく不安になって泣きたくなることもある。
何も、今泣かなくても・・・。

「あッ、明彦!!!貴様何をしているッ!?」

そのか細い泣き声は、電話の向こうの美鶴にも聞こえたようで。
美鶴の裏返った金切声ほど恐ろしいものはない。

「バカ、誤解だ!病人に手を出すか!」
「み、見損なったぞ・・・!」

そんな会話を繰り返しているうちに、体温計の音が鳴った。
槇村の涙はまだ止まりそうにない。

美鶴を落ち着かせ、枕が濡れる前に槇村の涙をぬぐってやり、体温計を取り出す。
一度に複数のことに神経を集中させたせいか、なんだか一気に疲れてきた。

39度。・・・思ったよりも高い。
それを美鶴に伝え、一通りの留意事項を聞いて、電話を切った。
美鶴は最後まで俺を疑っていた。


人のつらそうな顔というのはできれば見たくない。
それが身近な人間ならなおさらだ。

泣き止んでほしくて、無意識に槇村の頭を撫でた。
この時、美紀のことが頭に浮かんだのは、仕方がないと思う。
ふと、槇村が小さく口を開いたのがわかった。

「・・・・・おかあさん・・」

か細い声だったが、確かに聞こえた。
前にも後にも、槇村からこの言葉を聞いたのはこれが最初で最後だった。


・・・


薬を飲ませて数十分で、目に見えて落ち着いたようだ。
顔色もだいぶ良くなった。規則正しい寝息を立てている。

たまに汗を拭いてやりながら、しばらくそばにいた。
なんとなく、放っておけなかった。


せめて目が覚めるまでは、さみしい思いをさせずにいたい。

2011/09/19