ほほえみ
思わず笑みがこぼれたことに、私は気づかなかった。
この幼稚園に勤めてもうずいぶん経つけど、今日も平和だわ。
このとおりお天気は良いし。子供たちは元気いっぱいだし。
先生たちは生き生きしてるし。親御さんも、笑顔でお迎えに来てくれるし。
幼稚園の先生、という仕事はきっと私にとって天職だったに違いない。
じゃなきゃ、副園長になんて、なれないもの。
いつもどおりに授業が終わり、子供たちに混じって、迎えに来る保護者を教室の外で待っていた。
小さなグラウンド、門の外まで見渡せる定位置に腰を下ろして。
これは担任の仕事だけど、無理やり仕事を終わらせてから必ず来るようにしている。
最後の一人までしっかり見届けて、「またあしたね」と言うのが、もうライフワークのようなものだったから。
それは副園長になった今でも続いていた。
「あ、ママだ!!ママー!!」
「あっちゃん、今日もいい子にしてた?」
敦子ちゃんのお母さんはこちらに気付くと軽く会釈をして、小さな手をつないで帰って行った。
さて、あと半分くらいね。それにしても、おかしいわ。
あの子のお母さん、いつもなら一番はやくお迎えに来るんだけれど・・・。
「失礼」
”あの子”が気になって、教室の方へ目をやっていたら、いつの間にか目の前には男性が立っていた。
・・・あらあら、まあまあ。存在を認識して、最初に思ったのはそれだった。
「ええと、どちら様・・・」
無意識のうちに立ちあがって、思わずそう聞いてしまった。
いつもなら、知らない顔の大人が来ても、「誰のお迎えですか?」が決まり文句なのに。
「ああ、――こういう者です」
彼はスーツの胸元から、慣れた手つきでなにやら取り出して、広げて見せた。
それは、いちばん近い表現から言えば警察手帳だった。でもドラマでよく見る刑事さんのそれとは違う気がする。
ああ、そうそうFBIだわ。そっちの方がしっくりくるわ。
本物のFBIかどうかは置いておいて、つまりは彼の職位、階級の高さが伝わるような身分証明だった。
残念ながら、そんなものを見せられても私のような人間には結局はわからなかったけど。
私がそんなことをのろのろと考えている間に彼は手帳を仕舞い込むと、教室の方を見渡した。
高そうな黒いスーツに、意味ありげな黒い皮手袋。すらっとした長身で、細身の割には体格がいい。
あまりにも、この平和で陽気な幼稚園には不釣り合いな人物だった。
SPか。トップレベルのモデルか俳優か。どちらにしても、どう見ても民間一般人には見えない。
「あ、あの、警察の方がどうして・・・まさかなにかあったんですか?」
だとしたら納得がいく。聞き込み調査に来るのは初歩だものね。
ああ、だったら大変だわ。園長先生にすぐに報告して、親御さんに連絡網を――
「パパー!!」
おろおろする私の後ろから、元気のいい声がした。
振り向く前に小さな影は私の前を通り過ぎて、目の前の男性に飛びついた。
「結」
・・・結ちゃん!さくら組の真田結ちゃんは、勉強もあそびもよくできる女の子だった。
飲みこみがはやい、というのかしら。お友達も多くて、笑顔がかわいい女の子。すこし恥ずかしがり屋で、よく転ぶ。
ただ、言いたいことが言えなくて、よくひとりで涙ぐんでいるのを見かけることがある。
そのたびに話し相手になってあげていた。その最後に必ずいうのが、「ゆいもパパみたいにつよくなる」だった。
スーツの男性は結ちゃんに目線を合わせるように屈みこんで、小さな体を抱きしめた。
「パパ!おしごとは!?いつもはママなのに」
「結が幼稚園でいい子にしてるか、見に来たんだ」
二人のやり取りから、もうわかりきっていることだが、一応確認をした。
「・・・結ちゃんの、お父様でいらっしゃいますか?」
「はい」
「ええと、さっきのは・・・」
「ああ、申し訳ない。つい仕事の癖で」
確かに「どちら様」と聞いたのは私だから、「こういう者です」と答えた彼は間違っていない。
まあ、よかったわ。事件とか事故とか、なにもなかったみたいで。なら話は別。気を取り直した。
「結ちゃん、よかったわね、パパが来てくれて」
お迎えが来て帰宅する子には、必ずこうやって一言かけるようにしている。
子供の変化とか親との接し方とか、だいたいはこの時の反応でわかるから。
「うん!」
いつも通りの、満面の笑顔。よかった、家族関係は良好みたいね。
「いつもは妻に任せきりで、たまにはと思って」
彼は結ちゃんを抱き上げながら、そう言った。
結ちゃんの赤い瞳も栗毛色の髪もお母さん譲りだと思っていたけど、白い肌やきれいな顔は、お父さんと一緒ね。
「ね、せんせい」
いつの間にかお父さんの腕から降りてきた結ちゃんは、私の耳元で内緒話をしてきた。
「いいこと教えてあげる!」
「なにかしら?」
「こんどね、ゆい、おねえちゃんになるの!」
まあ!
つい驚いて彼の方を見ると、困ったようにぎこちなく笑った。
内緒話と言いつつ、結ちゃんの声は教室の中まで届いたように思う。
周りで子供たちの相手をしていた先生たちも、興味深そうにこちらの様子をうかがっていた。
結ちゃんと一緒に、彼の言葉を待っていた。
その雰囲気に観念したように、目を伏せて、それでも優しく笑いながら彼はつぶやいた。
「・・・、・・・男の子です」
それから半年後、結ちゃんの悔し涙を見ることは、少なくなった。
かわりに笑顔で話してくれるようになった。
生まれてきたかわいい弟のことを。
2011/11/06
参事官は警察手帳を持たないらしいのですが、そこは気にしない方向で。県警に出向中ということで。
あきひこさんは親ばかになってほしい。