巌戸台は今日も平和です
寮の風呂が壊れた。
温度調節ができなくなり、さらにシャワーの水圧もおかしくなった。
ありえない、ありえないから!と、いちばん取り乱したのはゆかりである。
部屋にシャワールームのついている3年生はいい。だがその他はこの共同浴場を使うしかないのに。
そういえば、近所に銭湯があったはずだ、と思い出したように言ったのは真田だった。
かくして寮生全員でぞろぞろと銭湯に向かった。
こちらは男湯。
浴場内の人はまばらだった。意外と広くてきれいで、なかなかなものなのに。
3人で横一列に並び体を洗っていた。
「にしても真田サン、マジで腹筋割れてるんすね」
「ん?」
中央に座る真田に順平が声をかけた。
視線の先には、確かに綺麗に割れた腹筋が。すべて計算されつくした、無駄一つない体だった。
同性でもこれはかなりうらやましい。天田もつられて横を向いた。
「ほんとだ。・・・いいなあ」
「おいおい天田少年、その歳で腹筋割れてたら逆にどうかと思うぞ」
「ち、違いますよ!僕だって、あと5年もすれば・・・」
「だったら体の柔らかい今のうちから鍛えておけ。体力もそうだが柔軟も大事だぞ」
「はい!」
「ちぇー、どうせ俺はひょろくもマッチョでもない標準体型ですよー。
いいよなー真田サン。細マッチョはいちばんモテるんすよ」
順平は小さくため息をついた。一方天田はなにやらうずうずしている。
「あ、あの、ちょっと触ってみていいですか?」
「あ?ああ」
「しつれいします・・・・、っわあ!」
天田にとってその感触は初めてのものだった。
かたいような、でもやわらかいような。腹筋とは奥が深い。彼はそう認識して、憧れだけが募った。
「俺もー!えいっ」
「こら順平!おまえはやめろ」
「おおー!すげぇ!・・・俺も鍛えっかなぁー」
こちらは女湯。
修学旅行以来の広々とした風呂を満喫していた。
「にしても馨ー、アンタなんでそんなバランスいい体してるわけ?」
「えっ?」
「ほんとー、なんていうかこう・・・きれいだよね」
「や、やめてよー風花まで」
さすがにこうまじまじと見られると恥ずかしい。顎の先までつかるように湯船に沈んだ。
「そのスタイル抜群の体が真田先輩にいいようにされてるって思うとなあ」
「!!ゆゆゆゆかりーーー!!バカ!なんてこと言うの!」
「事実じゃん」
慌てふためく馨は思わず大きな波を立てて立ち上がった。ゆかりはその波をかろやかにかわす。
「ま、胸はあたしが勝ってるけど!」
「バストサイズは美鶴さんの方が上であります」
「ちょ、アイギスー!余計なこと言うな!」
「事実であります」
なぜかアイギスまで浴場内に来ていた。まあ他に客はいないのでよしとしている。
美鶴は騒がしい4人を見て、「たまには大勢の風呂もいいな」と思わずにはいられなかった。
以前は一人でいる方がよほど落ち着いたというのに。
すっかり夜の更けた帰り道。来た時と同じように、ぞろぞろと寮へ向かう。
身も心もさっぱりして、さすがに今日のタルタロスは勘弁してほしい。
いつもより軽い足取りで、順平は思い出したように口を開いた。
「そだ、俺マジで筋トレはじめっから!ヨロシク」
「はあ?」
順平が突然何かを言い出すのはいつものことだが、今日はやたら張り切っている。
ゆかりはとっさに否定的な反応を示した。これも、いつものこと。
「いやー、真田サンと比べちゃうと、俺っちがあんまりにもかわいそうに見えてきて」
「べつに、おまえは普通だろ。力はあるし」
「違うんす!やっぱ、割れた腹筋てのは男にとっちゃ特別っす」
「ですよね!」
「おう!天田」
「へー、まあがんばんなよ」
「ゆかりっち、やる気をそぐような返事はノーサンキュー」
「バカじゃないの」
「おめー腹筋バカにすんなよ!?そういう反応は真田サンの体見てからにしろ!すげーんだぞ!?」
順平のテンションがいきなり高くなるのも、いつものことだった。
しかし今日は天田も順平側についている。
男はよくわかんないなあ。めんどくさい。ゆかりにとってこの話題はすでにどうでもよかった。
「うん、すごいよねー!私も見るたびについつい触・・・」
「「「・・・・」」」」
馨からしたら、それは至極当然の流れで、ノリだったのだろう。
自分の恋人のよさをわかってくれるというのはやっぱり嬉しいから。
だが墓穴だった。
「ち、ちが!さわ・・・触ってないから!そそそそんなことしてないから!」
馨は真っ赤になって否定した。湯上りのせいですでに赤かった頬がさらに上気していく。
「・・・あーもうはいはいわかったから。聞かなかったことにするから」
別にあたしらは真田先輩の腹筋に興味はないから。
ゆかりは馨をなだめる。こういう惚気にももう慣れた。他のメンバーもまたしかり。
美鶴はもちろん風花も天田もそれとなく視線を外した。
「・・・真田サン、なにかコメントは」
「・・・」
順平が真田にマイクを振る仕草をした。
もちろんノーコメントで。なにかを振り切るように、真田は一人で足早に寮に向かった。
影時間を除けば、この二人のおかげで巌戸台は今日も平和です。