special day


ありえないと思ってる出来事こそ、ありえない場面で遭遇したりする。



12月のはじめ。
今日は二人にとって大事な日だった。結婚記念日。しかも、初めての。
しかしお互い仕事なのは相変わらずで、夜に待ち合わせることにした。場所は馨が好きなレストラン。

どう考えても、俺が少し遅刻するはめになるだろうな。
いつもそうだ。ものすごく忙しいわけではないのだが、やはり基本は遅くなってしまう。
抱えている案件がやっかいなものばかり、というのも原因の一つだろう。

どちらかというと、馨は「記念日」への執着は少ない方だ。
「あした、何の日か覚えてる?」なんてお決まりのセリフを言われたことは一度もない。
ちなみにそう言った知識は同僚の体験談から得ている。

ただ、スルーしてしまうほどドライなわけではない。
自然と二人の間でその日の予定が決まるのだ。
ささやかだけど、少しだけ特別な、そういうイベントだ。

というわけで、ビルを出たその足でプレゼントを買いに行った。
オフィス街を離れて、人の多い駅前で適当に店を見繕う。
別にブランドにこだわっているつもりはないが、正直俺のセンスだと限界がある。
男物ならまだしも、女性の身に着けるものは同じにしか見えない。
少し高級なブランド品の方が、無難だというのは馨には内緒だ。
毎回喜んでくれているから、よしとしている。
今年はネックレスにしよう。線の細い、小さな星がついたネックレスを購入した。

馨は今も、俺の贈ったオルゴールを大切にしてくれている。
こうした記念日ごとに「中に入りそうなもの」を贈っていたら、あっという間にいっぱいになってしまった。
それはそれでいい。愛のあかしは、少ないよりも、あふれるくらい多い方がいいに決まってる。

店から出ると、雪が降っていた。
どうりで冷えるわけだ。待ち合わせ場所まで急ごう。
車は置いてきた。
「今日は、久しぶりに明彦と歩いてデートしたいな」という馨のささやかなお願いを聞いてやることにした。

しだいに雪は大粒になり、降り積もっていく。プレゼントの入った紙袋が濡れないよう脇に抱える。
人の多いスクランブル交差点。青になっても、目の前の女性は歩き出そうとしなかった。
その小さな肩が崩れ落ちたのは、一瞬のことだった。

「――おい!」

彼女が倒れる前に、なんとか腕を差し出すことができた。
何があったかはわからないが、体への衝撃を防げたわけだ。
ただ、その代わりに荷物を放るはめになった。そしてそのことは、頭からすっぽり抜けてしまった。

女性は若かった。同年代くらいか。
そしてすぐに分かった。――まずい。
彼女は妊婦だった。
呼吸は荒く、顔は青い。苦しそうに腹部を抑えていた。
次第に人だかりができる。素通りする人の方が多かった。

こういう「緊急事態」には嫌というほど慣れているので頭は驚くほど冷静だったが、
最善かつ確実な処置は思い浮かばなかった。今できるのは救急車を呼ぶことだけだ。

・・・

彼女は一人だったので、とりあえず一緒に救急車に乗ってきた。
その間に彼女の携帯電話を拝借して夫に電話をし、待つことにした。
警察の人間であるかどうかの前に、感情としてどうしても放っておけなかった。

夫はすぐにやってきた。
血相を変えて、頭と肩に雪を積もらせて、走ってきた。
よほど慌てていたのだろう、スーツはすっかりくたびれてしまっている。
彼女の居場所を告げると、息つく間もなく再び走って行った。

数十分後、彼は一人でこちらにやってきた。
落ち着いたようで、積もっていた雪は払われていた。

「妻は無事でした。・・・早産でしたがお腹の子も、無事に生まれました」
「そうか」

「本当に、あなたにはなんとお礼を言ったらいいか」
彼は泣きそうだった。
「あと少し遅かったら、危なかったそうです。
・・・倒れるときに衝撃がなかったのも、奇跡的だと言われました」
「ああ。・・・よかった」

生まれてくるべき命が、不運にも失われていいはずがない。
その悲しみは、よく知っているつもりだ。
そんな思いをする人が、増えていいはずがない。

「あの、お名前を」
「いや」

小さく首を振って、きっぱりと断った。
彼は残念そうにうつむいたが、ひらめいたように自分の手の荷物を俺に差し出した。

「じゃあせめて、これを」
「?」
「ケーキです。・・・恥ずかしながら、今日は結婚記念日でして。あなたからの電話が来る前に、買っておいたんです」

結婚記念日。
もちろん自分の予定を忘れていたわけではない。優先順位の関係は馨だってわかってくれるだろう。
しかし、「こっち」を忘れていた。あの現場に、信号の前に、プレゼントの入った紙袋を、そのままにしてきてしまったことを。

「・・・」

彼の差し出すケーキの入った紙袋を受け取ることにした。
「代わり」には、ならないかもしれないが。

別れ際、何気なく生まれてきた子の性別を聞いた。
彼は嬉しそうにこう答えた。

「女の子です。名前はもう決めてあるんですよ。美紀といいます」

輪廻転生、という言葉がある。
そういう非論理的なものは信じないたちだったが、それを言ってしまえばペルソナだってそうだ。

この巡りあわせが何を意味しているのか、知ることはできない。
だが、偶然ではないのだろう。
――はやく、馨のもとへ行こう。

・・・

結局2時間の遅刻になった。
待ち合わせ場所のレストランは、閉店間際になっていた。店内は薄暗くなっている。

店先には、馨が立っていた。
ちょうど、店から出てきたばかりのようだ。

呼吸を整えて歩み寄った。
すっかり降り積もった雪を革靴で踏みしめる。
馨は俺に気付くと、少し考えた後、あきらめたように小さく笑った。

「・・・すまない、遅れて」
「ううん。ちゃんと来てくれたから、いい。明彦は約束破らないもんね」

馨は不満そうな様子を見せることなく、そう言った。
思えばいつもそうだ。馨は俺を疑わない。信じてくれている。
それは高校生の時から、変わらない。

正直な話、小さなことが積み重なって結果として馨を一番に考えてやれないことが多かった。
理由はどうあれ、それは事実だ。これからもそれは、続くと思う。

なにをしていたの?どうして遅れたの?とは、聞かれない。
そこまで信じてくれていることが、素直に嬉しかった。
かわりに、いつものセリフがある。

「今日もおつかれさま」

しっかり自分を貫き通す、そういう明彦が私は好きなんだよね。
馨はにっこり笑ってそう言い、俺の腕に自分の腕を滑り込ませた。

いたらない夫だと思う。
鈍感な俺でも、自分に非があると認めざるを得なかった。


帰宅して、彼からもらったケーキを開けることにした。
もちろん、馨には何も話していない。
「えっ、ケーキ!?やったー!」

馨のこういう反応も、高校生の頃から変わらない。いつまで子供気分だ。
箱を開けて中をのぞくと、そこには残念すぎる光景が広がっていた。

「・・・・」
「あきひこ」
「・・・」
「・・・走っちゃった?」

思えば彼はケーキの入った袋を下げたまま、猛ダッシュで病院まで駆けつけたのだ。
この結果は当然と言える。
ケーキは箱の中でシェイクされ、原形をとどめていなかった。

「・・・・・すまん・・・」

謝るほかなかった。
彼も悪気はなかったのだろう。
それが痛いほどわかっているからこそ、俺が馨に謝るしかない。

「しょうがないよ。・・・それに、あれかなあ?そろそろ甘いモノ控えた方がいいかな」
「え?」
「これからは、食物繊維とか葉酸とかを意識しなきゃ」
「なぜだ」
「妊婦さんの常識だよ?」
「・・・え?」

思いがけない言葉に思わず間抜けな返事をかえした。
馨は照れ臭そうに笑う。

「えへへ」
「ま、まさか」

「うん、そのまさか」
「なっ、」

「妊娠したの」


家族が増える、という誰にでも起こりうる当たり前の幸せは、実は当たり前じゃない。
奇跡に近い。

守るべきものが、一つ増えたな。

2011/10/15