空腹の共有


「幸せにする」はまだいい。言われて嫌な気持ちになる者などいないだろう。

ただ、「俺のものになってほしい」さらには「もっと俺に惚れてくれ」なんて、どの面下げて言えばいいものか。
たとえそういう台詞のある演技をしろと言われても、やはりためらいと照れが邪魔することは目に見えている。
ここまでが一般人レベル。しかし真田明彦にはそのすべての要素が適用しなかった。

馨はしばしばあの時のことを思い出す。
たとえば授業中、教科書をただ朗読している先生の声など耳に入らず窓の外を見ているとき。
すると高確率で鼓動が早くなった。今思い出してもリアルに感じる。それくらい、忘れられない出来事が多すぎた。

恋はめんどくさい。たしかに。夢中になっちゃうと自分のバランスがとりにくくなるし、何かと不都合が多くなる。
けどそんな問題は、自分より幾分も美人な沙織の言葉を借りれば「クソ」だ。

――先輩をすきになってよかった。
いつもそういう結論を出す。するとたいてい授業は終わっている。
大丈夫、恋も勉強も遊びも、そして「特別課外活動」も、私の中では全部大事だ。
放課後、今日は先輩と帰れる金曜日だ。バッグのポーチにいつも忍ばせてある愛用の練香水をつけ直して、教室を出た。

真田先輩は照れ屋だけど、正直だ。
正直だから、嘘がつけない。いつもまっすぐだ。
そういう姿勢を貫けるって、すごいと思う。

告白されたとき、嬉しさよりもまず驚きが大きかった。
あんなにまっすぐに気持ちを打ち明けてくれる人なんて、私の知る限りでは彼しかいない。
そういうところがすき。
そしてそれは、今も。

「馨」
「はい!」

「・・・手をつないでもいいか?」

並んで校門を出たところで、そう言われた。律儀というかなんというか。
勝手にぎゅってされても、私はむしろ嬉しいですよ?
といいつつ本当にしたいときは私に断わりなんていれませんよね。
あの時のキスも、何も言わずに抱きしめられたことも。
なんてことは言わないで、さりげなく先輩の手を握った。少し硬い皮手袋の感触が手に冷たい。

「・・・あ」

先輩は慌てて手袋を外した。突如現れた色気の塊のような男の人の手。
隠されていたものを急に露出されると、どうしても意識して見てしまう。・・・確信犯?
昨日の夜、その綺麗な手でどんなふうに体を撫でられて、その長い指は何回私の唇をなぞったのか。思い出してしまう。
少し傷が目立つのは、部活のせいかタルタロスのせいか。そして再び手を差し出される。

「これでいい」

遠慮がちに握ったその手は、ほんのりあたたかくて安心した。
ごつごつした感触と長い指。たまにテーピングのテープが引っかかる。
私の手は、先輩の手の大きさと形を正確に覚えていた。他の誰よりも、つなぐ回数が多いから。
考えてみれば、それが恋人の定義だと思う。少なくとも私にとっては。

ふと気が付いて、ちらりと先輩の顔を見た。自然と目が合う。この「自然さ」も恋人の特権。
つないだ手をすぐにつなぎ直した。指と指を絡ませて、恋人繋ぎに。

これがこうやって私から自然にできるようになるまで相当な時間がかかった。
それはタイミングだったり、迷いだったり、ぎこちなさだったり。

「馨」

再び名前を呼ばれた。
小さなことだけど、こうして先輩に何度も名前を呼んでもらえるのが最近嬉しい。
今度は返事をしないで、小さく微笑んで目を合わせる。

「おまえ、最近重くなったんじゃないか」

こういう脈絡のないことを突然言い出すのも、この人の特徴だった。
正直だから、嘘がつけない。いつもまっすぐだ。女の子に言わなくてもいいことの区別はまだつかないらしい。

「昨日、思ったんだがな」

昨日、と言われて一瞬息が詰まった。そして変に体がこわばった。
こういう真昼間(もう夕方だけど)からそういうことを思い出すのはよくないことだと思う。だって体が変に反応する。
当事者がそばにいればなおさら。

昨日、すなわち昨夜は先輩の部屋に泊まった。もちろんこっそりと。
部屋に入ったのが10時で、ベッドに入ったのが11時で、たぶん寝たのが12時、ちょうど影時間の直前だったと思う。
その中で、先輩が私を「重い」と感じたのはちょうど11時前のはずだ。
お姫様抱っこでひょいっと抱き上げられてベッドに放り出された。ものすごくやさしく放り出された。
そのあとすぐに電気が消されて、先輩もベッドに入った。その空白の1時間は、繰り返すがこの時間帯に思い出すのは適切ではない。

「どれくらい?」

脳裏に焼き付いているとんでもない映像をかき消すために、そう聞いてみた。
本来ここはヒステリックに怒るところだが、それもできないほど昨日は・・・、濃厚だった。
正直朝になってもまだじんじんと違和感が残った。いつまでも気持ちのいい波に乗っているような、そんな浮遊感。

「ほんの少しだ。間食分だな。数字にすると1キロってとこか」

先輩の分析は的確だった。というか当たり前というべきか。
それよりもたった1キログラムの違いがわかることの方がすごい。・・・抱きなれてるってこと?
確かに、ここ最近ちょっと食べ過ぎたかも。よりによってお菓子ばっかり。
今日もそうだ。休み時間の度に、甘いものがほしくなった。
言いたくないけど、エッチした翌日はお腹がやたら減る。夜に動いた2倍以上のエネルギーがほしくなる。
これは私だけ?先輩は?・・・こんなこと聞けない。

「私も先輩と一緒に減量した方がいい?」

ボクサーにとって減量はやっぱり必要なことらしい。といいつつ海牛には通うのだから、何とも言えない。
頭を切り替えるのに必死だった。けれど口調はいたって冷静に。意味の分からない意地の張り方。
つないだ手があつい。この手汗は100%私のものだ。

「それは必要ないだろ。・・・抱き心地もいいしな」

無駄に真剣な顔で何を言い出すかこの男は。

「ああ、もちろん細身のおまえだって好きだ。要はおまえだったらなんでも」
「わ、わかりました!やややめてくださいもう!」

聞くに堪えないいたたまれない恥ずかしいの三拍子がそろったところで強制終了させた。

「そうだ。これからはがくれにいかないか?」
先輩はポケットからごそごそと何かを取り出した。クーポン券のようだ。
替え玉無料、だそうだ。ちょうど2枚ある。

「夜にいい汗をかくとどうも腹が減る」

わかりました。
今日は私も替え玉挑戦します。今日ならいける気がします。ほかでもない先輩と一緒なら。

2011/10/19
EROのリハビリ第1段階。時は満ちた!いやもう少しかな。