月がきれいですね
しまったと思った時には遅かった。
私としたことが――
クラピカは思わず舌打ちをしそうになったが、寸前でとどめた。
さすがに、気が引けた。通話口の向こうに聞こえてしまうことが。
切る・・・わけにはいかない。
ああ、しかし、――く・・・っそ、なんだって、間違って、着信画面の通話ボタンを押してしまったんだ。レオリオからの。
いつものように、いつもの時間にかかってきて、それをやっぱりいつも通り、スルーするはずだった。
出るわけにはいかない着信画面を、コールが途切れるまで見続ける。凝視し続ける。頭の中に、彼の顔を思い浮かべて。
なんとなく、目をそらせなかった。せめてもの、クラピカなりの、彼への想いの報い方だった。
それも、いつも通り。けれど、携帯を持ち直した瞬間、親指が通話ボタンに触れてしまったのだ。
全く最近の機種は画面の感度が良すぎる。
さてどうしたものか。通話ボタンを押しておいて、何も話さずに切ることは、さすがのクラピカでも憚られる。
ならば、出るしかない。――意を決した。
携帯を耳にあてがうその手が震えていることに、クラピカは気づく余裕がなかった。
「・・・、レ」
「クラピカ・・・か?」
その声が、鼓膜を通って、神経を通って、脳が刺激されて、血液と共に全身にめぐっていく。あたたかいなにかが。
だから――だから出たくなかった。出られなかった。なのに・・・。
もう、声を発したらせき止めていた涙があふれてきてしまいそうだった。
そんなわけにはいかない。電話口で――それも久々の――いきなり泣き出したりしたら、
きっと彼は飛んでくる。それを今の私が許すわけには、いかないんだ。
「・・・」
「・・・」
数秒の無言。電話をかけてきたのはレオリオの方なのに、なにも言わない。
言わないのではなく言えない。あふれてしまいそうで。きっと彼も、今の自分と同じような感覚に陥っているのではないか、
と一瞬でも思ってしまって、自嘲した。そうであっても、そう思うのは罪なことに思えた。
今の私に彼を想う資格なんてないのに。
沈黙をやぶったのはレオリオだった。
なにかを言いかけて、飲みこむ。その息遣いが聞こえた。そしてすぐに、いつも通りを装った、陽気な口調が耳に届いた。
「・・・ったくよぉ、何回かけたと思ってんだよ・・・もう、おまえに電話かけるの、ライフワークになっちまうとこだった」
「・・・、それは・・・ああ、・・・わかっている」
クラピカにしては歯切れの悪い、脈絡のない返しだった。レオリオは、そんなクラピカの心の内を、痛いほどに感じた。
だからといって、今できることなんて、なにもないこともまた、わかっていた。
「・・・クラピカ」
「・・・」
その問いに、声で答えることができなかった。かわりに、見えるわけがないのに、二度、三度、小さく頷いた。
携帯を握りしめる手のひらは汗ばみ、金髪はさらさらと音を立てた。
電話越しに自分の名を呼んでくれる彼の声。
声を聞いただけで、どんな顔で、どんなふうに喋っているのか、鮮明に思い浮かべられる。
それがつらい。彼が愛しすぎてつらい。
「たまにでいいからさ、こうやって、電話出てくれよ」
「・・・」
それは難しい注文だった。
安易に「いつでもどうぞ」とは言えないし、「もうかけてくるな」とも言えない。
とにかくこの件に関しては複雑なのだ。
「ま、いいや。そっちはさ、月、出てる?」
唐突な彼の問いに、クラピカは机を離れ、薄暗い部屋のカーテンを開けて空を見上げた。
「ああ。今夜は三日月だ」
「奇遇だな。こっちもだ」
月は一つしかないのだから、奇遇でもなんでもない。
けれどクラピカには、彼が何を言いたいのか、なんとなく、わかってしまった。
途端に、頬が赤く染まったことも、自覚してしまった。
「俺らこんなに遠くにいるのに、おんなじもの見てるって、すげえな」
「・・・、・・・そうだな」
今の自分の顔を、誰にも見られたくはない。きっと見事に弛緩しきっている。心地のいい疼き。久々に感じる高揚感だった。
同時に襲ってくる罪悪感。この二つはクラピカの中で、常に同居している。
会いたい。
その言葉を、彼に伝えることはできなかった。
通話の終わった携帯を机に置き、もう一度空を見上げた。今度は窓を開けて。
少しひんやりとした風が、頬に当たり、夜の匂いを運んでくる。
レオリオも、窓辺に腰掛けて、窓を開けて、同じようにしているのだろうか。そう思い、窓枠に体を預けてみる。
硬い。冷たい。レオリオの鼓動の音も聞こえない。
けれど今夜だけは――このまま、こうしていてもいいだろうか。
いくつもの思いが交錯する中、クラピカの口もとは穏やかに緩められていた。
2019/10/04
BACK