クラピカの肩には大きな傷がある。服を脱がないと分からない。
首から肩にかけて、色白で華奢な体をえぐるような大きな切り傷。
今でも痛むことがあるという。
たぶん、オレしか知らないのだろう。身体を合わせるたびに、その傷をいつまでもさすり続けた。
少しでもいいから、痛みを和らげてやりたかった。でもそれは単なる同情だったのかもしれない。
そのときのオレはクラピカの苦しみなんて、ちっとも分かっちゃいなかったから。
いつだったか。一度だけ、クラピカは話してくれた。
「今日と同じ・・・そう、満月の夜だったな」
”あの日”に負った傷だと――
つづれ織り 01
「邪魔をするな!!」
手を振り払われて、こう吐き捨てられて、オレはどんな気持ちだったか。
こんなに本気でオレを否定するクラピカは初めてだ。
怒りや悲しみはない。その瞬間、ただ、どうすればいいか全く分からなかった。
出てくるのは言い訳のような、シンプルでいて完全に矛盾している言葉たち。
「関係ないのはわかってる。でもどうしてもほっとけねぇんだよ。
自己満足とか偽善とかそんなレベルじゃないだろ?
わかんねぇんだよ、オレだって・・・」
なんでこんなに、好きになってしまったのか。
土砂降りの雨の中、クラピカはずぶ濡れで
血だらけで
帰ってきた。
特に一緒に住んでいるわけではない。ただ、クラピカはホテルを転々としているから、「帰ってくる」のは、オレのところだけだった。でもそれもほんの数時間。ほんの少し。
クラピカのものだと思っていた大量の血は返り血で
それでも一ヶ月の入院を余儀なくされた。
苛立ちを隠せなかった。
じっとしていてくれない恋人に。大事なものを守れない自分の非力さに。
自分の、貪欲さに。
どうしてこんな無茶をするんだと舌打ちをするオレに、クラピカは一言言い放った。
ジャマをするなと。
別にクラピカの右腕にしろとは言わない。手伝うなんていってもクラピカは絶対に断る。人の手を借りようとしない。
そしてなにより、仲間を――、オレを想ってくれているから。
”こんな思いをするのは、私一人で充分だ”と・・・・・・
自分はなんて、なんて無力なのだろうと改めて知った。
なんのために医者になろうと思ったのか。
じゃあどうすればいい?
待っていることと、信じること。
オレにはこれしかできなくて、最もしなくてはならないこと。
わかっている。充分肝に銘じてきた。
それでもどんどん傷ついて追い詰められるクラピカを実際にこの目で見るたびに
そんな理性は吹っ飛ぶんだ。
いちばん大切なときに、いちばん大切な人を守れない。
気を張り詰めっぱなしで、何かの拍子にプツリと緊張の糸が切れてしまってボロボロに崩れてしまいそうなとき
誰かが支えてやらないと――オレがいないと、だめなんだ。
「バカか貴様は!?」
なのになんでコイツは
「他人のために命を削る必要があるのか!?
ましておまえは・・・こんなところで立ち止まっている場合じゃないだろう!!」
休むことを知らないんだろう。
「未来があるじゃないか・・・・・。そのために今を頑張らないでどうする気だ!?私なんかの為に・・・」
だったらなんで
「なんで・・・・私の為に・・・」
泣きそうなんだよ。
「大っ嫌いだ」
「・・・え?」
「おまえのそういうところ。許せねぇよ」
そう、許せない。
こいつは大事なことを、何一つわかっちゃいない。
「おまえが死んだら悲しむ人間が山ほどいるってこと、忘れんじゃねぇよ」
オレもその中の一人だと
もしかしたら後を追って、いるはずのないクラピカをどこまでも探しに行ってしまうかもしれないほど重症だと
「・・・頼むよ。もうどこにもいくな。・・・・・ずっとここにいろ」
一生分の涙でも足りないほどに泣き叫ぶと
本気で言って、背骨が折れそうになるくらいに、抱きしめた。
「・・・忘れんなよ。オレは世界で一番おまえを愛してる。だから、勝手に死ぬな」
ここまで
ここまで言っても、わからないかもしれない。
なんせ相手はあのクラピカだから。
ほんとうに無茶ばかりして
そのくせ人の事ばかり考えていて
自分なんて二の次で
そんな不器用なクラピカに、オレの気持ちはちゃんと伝わったのか。
もしダメだったとしたら
オレの表現不足だな。
「・・・すまない・・・・レオリオ・・・」
泣き声と一緒に、オレの腕の中で聞こえたかすかな声。
オレが正しいかなんてわからない。
クラピカが間違っているなんて思わない。
答えなんてない。
夢を見た。
朝起きると、クラピカが台所に立っていて、包丁を使っている。
オレはそれを見て飛び起きて、すぐさま駆け寄る。
大丈夫か、怪我してねぇか?過剰な心配をよそに、クラピカは嬉しそうに、
今日の朝ご飯は大成功だと、笑顔で報告してくれた。
さすがオレの自慢の奥さんだ。そういって、今日一番のキスをする。
そんな、なんとも幸せで、都合のいいオレの夢。
「・・・・・・・・・結婚だ」
そうだ、結婚だ。そろそろ現実的に考えなければ。
――ちがう。結婚じゃない。
プロポーズだ。まだプロポーズだってしていない。気が早すぎるぞ、オレ。
そんな、なんとも幸せで、残酷な現実。
「もーう、レオリオ先生、どうしたんですか?遅刻なんて珍しい」
「わりぃ、ちょっとな」
来月でちょうど1年。小さいけれど、この街唯一の病院・・・もとい、診療所。
優秀な看護士3人と、毎日働いている。
オレの夢は、叶ったのだ。
ずっとずっと、願っていた。
これでよかったかなんて、わからない。
だが、間違ってはいない。
「いつもありがとう、せんせい」
こうして、子供たちの笑顔が見れるのなら。
クラピカとはあれ以来あっていない。連絡が、途絶えてしまったのだ。
すまない、と謝ったきり、オレの前から消えてしまった。
探すなということなのか
探して欲しいということなのか
オレはクラピカの突然の蒸発を後者として受け止めた。だから探した。
すべてを賭けて、捨てて、探した。だが見つからなかった。
人の記憶は
時とともに薄れるなんて嘘だ。だって昨日のことのようにクラピカを思い出せる。
凛として響く声も。温かい肌も。強い眼差しも。
なのに現実味がない。どうしても感じられない。
虚無感ばかりがオレを襲う。
そんなときだった。
突然、センリツから電話がかかってきた。
もちろんセンリツとも連絡をとっていた。クラピカを探す為に。
「大変なのよ!お願い、早く来て!クラピカが――」
センリツに言わせれば、そのときのオレの心音はstringendoだったのだろう。
次第にどんどん脈拍が強く、速くなって
心臓が張り裂けそうだった。
――ごめんなさい、あなたをずっと騙してた。
ほんとうは私、クラピカと連絡を取っていたの。そう、ずっとよ。
今はあなたに会えないって、言わないでくれって、必死に・・・。
これ以上、あなたの負担になりたくなかったのね・・・。
だけどもう限界よ。お願い、早く行ってあげて。
クラピカはあなたじゃないとダメなのよ!
電話越しのセンリツの声は震えていた。
その言葉がぐるぐると頭の中をまわっている。
夢中で走った。飛行船に乗るより、オレの足の方が速いかもしれないとまで思った。
クラピカは病院にいる。
極めて危険な状態だと、センリツから聞かされた。
人生のうち奇跡を一回でも起こせるのなら
この瞬間に起こして欲しい。
繋ぐ手からオレの全精力を注いでも足りないくらいの力が欲しい。
クラピカを生かして欲しい。
オレはどうなってもいい。一緒にいれなくてもいい。生きていて欲しい。
何時間くらい、こうしてるだろう。
手を握っていられることがこんなに落ち着くなんて、思わなかった。
「・・・・・・・・・・レオ・・・・リオ」
聞き逃してしまう蚊の鳴くような声もはっきりと聞こえるほどに、その日の夜は静かだった。
幻聴かと思った。だってクラピカの身体に変化はない。
動かないままだ。
それでも確かだった。酷く弱い力で手を握り返されたこと。
クラピカは今も生きている。
奇跡は、起こった。
何年ぶりだ?
「おまえ・・・ずいぶん老け込んだな」
「・・・・減らず口は相変わらずだな、まったく」
こうして他愛ない会話ができる。
どこかぎこちない抱擁を交わす。
それでも、あまり笑顔を見せてはくれなかった。
もう愛される資格なんてないのだと。
クラピカは
精神的にも、肉体的にも――
すべてが終わったときには、もうぼろぼろだった。
今もこうして病室の真白なベッドの上で、クラピカは遠くを見ている。
オレは毎日会いに行った。
自分の診療所を放っておく事はできないから、毎日遠くまで通い続けた。
この会えなかった数年間を埋めるように
毎日会いに行った。
「なぁ・・・レオリオ?」
珍しく自分から話しかけてきたクラピカの瞳は、潤んでいた。
「おまえとの約束・・・・私は・・・、守れなかったのだよ・・・」
どうしてもうまく伝わらなくて
結局はこうして心配をかけてしまった。
自分を大事にすると誓ったのに
やっぱりうまくはいかなかった。
そのことを
クラピカは悔いていた。
「・・・大丈夫だ。よくがんばったな」
金髪の小さな頭を優しく撫でる。
クラピカはオレの胸にしがみついて、火がついたように泣きじゃくった。
ただ黙って背中をさすっていた。
なんでだろう
頬が温かい。
あぁ、オレも泣いている。
女の前で泣くなんて、オレはほんとに情けねぇ。
「・・・・レオリオ・・・」
オレの耐え切れない震えに気付いて、クラピカは顔をあげる。
もう一度強く抱きしめて、その愛しさを確かめる。
すべて
ちゃんと存在している。
「・・・・よかった・・・・無事で・・・――」
ほんとうに
いとおしい。
オレは詳しいことまで知らなかった。
聞いたことがある。
――おまえのこと、全部聴かせて欲しい。
――時が来たらな。
クラピカの返事は一言だった。
今がその時だ。
すべて、話してくれた。
病院の裏の丘に登って、夜空を眺めて。
星が綺麗だった。
寒いから、一つの毛布に二人で包まれば、身体の芯まで温まった。
ぽつり、ぽつりと小さな声で。
小さかった頃の思い出話。なんでも知っている父をとても尊敬していたこと。
美しくみんなの憧れだった母はとても優しかったこと。
ほんとうに、みんなを愛していたこと。
旅団に襲われたこと。
その後どうやって生きてきたのか。
――すべて克明に。
何時間も、何時間もクラピカの話を、隣で聞いていた。
「・・・これが、私だ」
すべてを話し終え、クラピカはふと、オレに笑ってくれた。
オレがずっと見たかった、笑顔。
無理をしていない
自然に出てくる
綺麗な笑顔。
「今度は・・・レオリオの話が聞きたいな」
そしてまた星を眺める。
悪いテストは必ず山羊に食べさせていたこと。
みんなで森を探検したこと。初めてできた友達のこと。
父親に殴られたこと。家出をしたこと。裏切られたこと。
親友が死んだこと。
自然に
昨日のことのように
ストレートに言葉に出来た。
そしてまた、他愛ない話をして
いつまでも抱き合っていた。
「急激に回復しています。いや、人並みはずれた治癒力ですね。
念能力はまったく使えないというのに・・・。これなら退院も夢ではないでしょう」
けじめをつけたかった。
これまでに。
これからに。
今日を新しいスタートにしたいと思った。
晴れ渡る空。澄んだ空気。
ぴったりじゃねぇか。
「・・・・え?」
もっと大きい声で言えってのか?
おいおい、勘弁してくれよ。
こんな重要なシーン、せっかくだからカッコよく決めたいじゃねぇか。
「だから・・・、クラピカ。もう一回言うぞ」
「ああ・・・頼む」
あの丘の上へ
クラピカを連れ出して
青い空をバックに
オレはこう言う。
「オレと結婚してくれ」
クラピカの口から出たのはひどく現実的なことだった。
それでも、夢のような面持ちで泣き出した。
最近
オレはコイツを泣かせてばっかりいる気がする。
「だって・・・・ちゃんと新しい仕事も探して・・・近くに部屋も借りたのに・・・
おまえとは、このままの関係でいて・・・それを保っていくのだとばかり思っていたのに・・・」
こんな・・・現実的なこと。
――これから先のことをすべて見据えていたはずなのに。
オレはクラピカの、すべてをくつがえした。
クラピカはわからないと言った。
まだ罪の意識が強すぎて
幸せになるのが怖いのだと
許されるのかわからないと。
「オレはクラピカのことに関しては気が長い方だから・・・。それはおまえがよーく知ってるだろ?
――いくらでも待つさ。それからでもいいよ。
答えが出せたらこれを受け取ってくれ」
小さな箱に光る小さな指輪。
ただ、その答えはあまりにも重いから
クラピカ一人じゃ不安極まりない。
それこそ今度はオレが倒れちまう。
だから
今度は、二人で答えを探そう。
まだ信じられない。
私がレオリオと結婚?
もちろん夢にまで見ていた。
そうなったらどんなに幸せだろうと。
しかしそれが怖い。
たった一人生き残った私を
幸せになろうとしている私を
みんなは
クルタの民は
どう思うんだろう?
眼を取り戻して、祈りの儀式を捧げたって
終わったわけじゃない。
忘れてはならないのだ。
しかし、せめて永遠の苦しみからは抜け出すことが出来ただろうか――
「なーにぼーっとしてんだよ。だいじょぶか?」
飲み物を買ってきてくれたレオリオが私の額をつつく。
「だ、大丈夫だ。・・・・・なんだ?頭に・・・」
「あー、だめだめとっちゃ。せっかくかわいいのに」
レオリオが私の髪にさした一輪の花。
信じることができなかった。
だって、有り得ない。
「戻ってくるときに、そこで見つけてさ。おまえに似合うかなーって」
まさか。
だって。
これは・・・
「レオリオ・・・・これは、この花は・・・」
――私の故郷にしか咲かない花なのだよ。
言えなかった。
言葉にならなかった。
だって信じられなかったから。
「・・・あれ?クラピカ・・・ちょっといいか?」
「・・・な、おい、レオリオ!なにを・・・」
「肩の傷・・・・きれいに消えてるぞ」
許してくれるのか。
私を?
生き残ってしまった私を。
あのとき死ぬべきだった。
しかし生かされてしまった。
そんな裏切り者の私を?
認めてくれるのか?
彼を愛すことを。
そっと、肩に触れてみる。
触れるたびに痛くて痛くて仕方なかった癒えることのない傷。
復讐の証にしていた。
同胞たちの恨みを刻んだ証だった。
きれいさっぱり消えている。
痛くない。
痛くない。
・・・あたたかい。
「それにしても、おまえ・・・やっぱり白が似合うな。一番きれいだ」
過去を捨てるなんて出来ない。
でも過去を引きずるのはやめた。
今分かった
私があの時生かされた理由。
彼と出逢うためだ。
これからは彼と一緒に未来をつくる。
2006/08/09
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