幸せが続くとは限らない。
そんなの誰でもわかっている。
その”幸せじゃない”何かを乗り越えられるかは
その人次第だと、誰かに教わった。


けれど
オレたちには、明るい未来しか有り得ない。






つづれ織り 10







オレの家に
母さんの小さな咳が響くことが多くなった。

その回数も
増えていった。

うっとしい雨が続く梅雨の時期
6月だった。

夕食と朝食は必ず3人で食べていたのに
ここ最近親父の顔を見ない。

あの明るい笑顔が消えた食卓は
異様な静けさが漂っていた。

めずらしくリビングに顔を出したかと思うと、すぐに白衣を着てどこかへ行ってしまう。

「ちょっと忙しくてな」
無理をして笑顔を作る親父を見ているのが辛かった。

オレは高校3年生になっていた。
ケイトとの関係も順調だった。

おまえ、進路はどうするんだ?

3年の春になっても将来を見据えないオレに、担任は毎日のようにオレにこう言う。


「なあ、リン。知ってるか?」
授業中、ノアがそっと話しかけてくる。
ノアとは今でもいい友達だ。

「なにを?」
「最近さ、原因不明の感染病が流行ってるらしくて」
「・・・え?」
「まだこの街は平気だけど・・・怖いよな。オレの周りにも、風邪っぴきがやたら多くてさ・・・」

オレは何も
知らなかった。

親父があんなに忙しいのも
母さんの体調が悪いのも

それが原因じゃないのか?



「・・・あっおいリン!?」
「こら、おまえどこに行く!授業中だぞ?!」
勢いよく立ち上がり
ノアと先生の制止を振り切って
オレは教室を飛び出した。

走って走って
ついたのは自宅。

今日も雨が降っていた。
昼間なのに空はどんよりしていた。

「母さん!」


家の中にはだれもいなかった。
親父は診療所にいるはずだし
ここ最近、母さんは寝室にこもることが多くなった。

オレは迷わず両親の寝室のドアを開ける。


「・・・リン」
「おいどうしたんだよ、こんな時間に」

ベッドに横になっている母さんと
その傍らに立っている親父。

親父の手には水が入ったコップと、薬。


「・・・母さん、どうしたの」
「え?ああ・・・なんだか風邪をひいてしまったみたいで」
「それよりおまえ、学校・・・」
何かを隠すような親父の言葉を容赦なく遮る。
その事実が胸に痛んだ。

「聞いたんだ。感染病が流行ってるって。だから親父忙しいの?」
「・・・ああ」
「母さんは・・・ほんとにただの風邪だよね」

オレは現実を
見たくなかったんだ。










雨がうっとおしい6月。
母さんは咳をしはじめた。
同じ頃、親父の診療所に、風邪の症状を訴える患者が大勢来た。
そうして街中に風邪が流行りだした。

国立感染症研究所っていうところが調べたら
それは風邪なんかじゃなくて新種の感染病だと
わかった。


抵抗力の弱い人や、子供やお年寄りばかり。
母さんは昔の無理のせいでもともと体が弱かったけど
本当にたまたま風邪をひいてしまって
それで

「・・・嘘だろ」


母さんの体はもうボロボロで
今まで生きてこれたのが奇跡だと
医者は――親父は、言っていた。
そこに追い討ちをかけるような、今回の事態。

雨ばかり降る6月。
母さんは咳をしはじめた。
ただの風邪だったのに
咳が止まらなくなって
ついには

倒れてしまった。
オレが早退してきた今日のことだった。



・・・・・




うちのリビングの壁には、オレの小さな頃の落書きが残っている。
聞いたんだ。どうして消さないの?と。
母さんと親父は笑い出して、
おまえが大きくなったら、こんな悪さばっかりしてたっていう証拠を見せてやろうと思って。――と。

親父はいつも明るかった。
母さんはそんな親父が大好きだった。
そしてオレは両親が好きだった。

落書きだらけの壁にそっと寄りかかり
棚の上の家族写真をそっと手に取る。

この年になって恥かしい、と言いながら無理矢理撮らされた高校入学のときの3人の写真。
オレはふてくされて
親父は満面の笑顔で
母さんも嬉しそうに
満開の桜の下、3人並んで映っていた。


ああ、だめだ。
涙が
止まらない。


・・・・・




そして過ぎた恐ろしく長い一週間。
その日の夜は嵐で
強い風と雨ががたがたと窓を鳴らした。

オレは母さんのベッドの横に座っていた。
これはもう拷問としかいいようがない。
こんなに辛いことだなんて
思わなかった。


ふとドアが開く音がする。
親父だった。

「どうだ?母さんは」
「・・・今は寝てる」
「そっか」


親父はそこから一歩も動かず
オレをまっすぐ見た。
「リン」
「・・・え?」
「母さんを頼んだぞ」


オレは親父が何を言っているのか分からなくて
ただただ目を見張るばかり。
「・・・なに、言ってんだよ親父。母さんがこんなに苦しんでんのに・・・
――どこ行く気だよ!?」

思わず立ち上がり
腹の底から怒鳴る。
親父は動じなかった。



母さんが一番そばにいてほしいと願ってるのは
オレじゃない。
親父だ。
悔しいけど、それは事実だ。


「だからだよ。今でも患者が助けを待ってる。――オレは医者だからな。
ったく、応援が来るはずだけどこの嵐じゃ無理だ。ついてねーぜ」

オレは口を
挟めなかった。

「こんなところでちんたら立ち止まってたらクラピカに怒鳴られちまう。
それにな・・・リン」

見落としてしまいそうな
ひどく弱い力で、母さんはオレの袖をひっぱった。
驚いて振り返る。

「クラピカはリンがそばにいれば
――大丈夫だ」

母さんはオレに微笑んで、親父の方へ視線を移す。
そしてか細い声でこう言った。

「いってらっしゃい・・・レオリオ」

いつもの
綺麗な笑顔で――
いつものように、親父を送り出す。
オレには
信じられなかった。

親父は何も言わず、にっこり微笑んだ。


白衣を翻して家を飛び出す親父の後姿は
いつもと変わらず、街一番の――いや、世界一の愛妻家で、親バカで、家族思いのレオリオ先生だった。



2008/09/18
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