ロビンソン 02
小田桐は真田護の自宅――閑静な高層マンションの前で、ちょうど18時になるまでチャイムを押すのを待つことにした。
ふと腕時計に目をやる。あと1分30秒。教師になって、家庭訪問は幾度となくしてきたが、こんなに緊張――というか胃がキリキリするのは初めてだ。
しかし小田桐は心の準備ができていたし、十数年ぶりに会う彼がどう変わっているか、いくつかのパターンも考えておいた。
あの男のことだから、間違っても「悪い方向」には行っていまい。真田護が提出してきた書類の中の、彼の勤め先を見ればそんなものは一目瞭然だ。
司法試験に合格したことまでは風の便りで聞いていたが、まさか警察官僚とは。思いっきりキャリア組じゃないか・・・。
ボクシングをやめて、あのころが嘘のようにずんぐりむっくりに太っていれば、少しは気が楽になるのだが。いや、ありえないか・・・。
僕らしくない。どうしたんだ、ここまで卑屈になるなんて。しっかりしろ、私情を挟むな。僕は教師だ!真田護の担任として、職務を果たすんだ。
はっとした時には、腕時計の秒針は18時を過ぎていた。一呼吸おいて、チャイムを鳴らす。
重そうな扉は、すぐに開いた。そのすぐ向こうには、予想通りの男性の姿。事前に、当日は「父親」の方が対応すると聞いていたからだ。
必然的に目が合う。本来ならば、その瞬間お互い意味のない笑いを浮かべて過剰な挨拶を交わすものだ。しかし。
「・・・」
「・・・」
沈黙。ドアを支える彼は、小田桐を見たまま固まっている。
まあ確かに「小田桐」なんて名前はそこらじゅうにいるし、まさか自分の息子の担任が、あの「小田桐」だとは、彼も想像していなかったんだろう。
ならきっと、「彼女」もそうかもしれない。小田桐はふとそう思い、無意識に動揺する。
「・・・」
「・・・」
まだ沈黙は破られない。それにしてもだ。真田は腹が立つほど「正しい方向」に成長している。
まず、あのころよりも背が伸びたんじゃないか。僕はさほど変わっていないというのに。
ずんぐりむっくり太っているどころか、細身のくせに体格がいい。あのころよりもレベルアップしている。
しかし相変わらずいけ好かない顔をしている。まだ面談を始めてもいないのに帰りたい。
「・・・月光館学園中等部1年C組担任の小田桐です」
「・・・、ああ」
「・・・」
「・・・」
なんだ、この会話は。要領を得ないどころじゃない、やっぱり即刻帰りたい。いやしかし、職務放棄は懲戒解雇の対象!!
顔見知りの久々の再会というにはひどすぎる。たとえ仲が良くなくても、顔見知りなら「ああ、久しぶり」「元気だったか」くらいの社交辞令は交わすものだ。
一向に進展しない状況にうんざりして、ふと腕時計に視線を落とす。この時点で、18時5分を過ぎていた。
・・・
真田はあきらめたように瞳を伏せて、小田桐を招き入れた。どうぞ、と感情をこめない声で。
そして部屋に通され、ダイニングテーブルに向かい合って座る。どうやら二人のほかには誰もいないようだ。
意図せず目に入った、キャビネットの上の写真立て。家族写真だ。遠目でよく見えない。しかしちゃんと、4人写っている。
「・・・」
「・・・」
「お茶を淹れますが」
「結構です」
「・・・」
「・・・」
家庭訪問。それは成績の状態などを親に報告し学校と家庭の連携を図る行事である。
その定義に則って、責務を果たせばいい・・・それだけだ。小田桐はそう思い返し、脇に置いた鞄から大きめのファイルを取り出す。
真田は黙ってそれを見ている。私服ではない。なぜかスーツだ。ジャケットはなく、仕立てのよさそうなグレーのベストを着ている。
小田桐はファイルを広げて説明を始めた。いつも通りに。
「護君の中間テストの結果です」
「・・・」
「ご覧の通り、200人中20位ですから、優秀な方です」
「はい」
「授業態度も至って真面目、所属しているバスケットボール部でも活躍しているようです」
「はい」
「ただ時折、他の生徒とぶつかることがあるようです。僕の見た限り、彼はしっかり自分を持っています。
妥協をしない、正義感が強いんでしょう」
「確かに」
「・・・やはり似るものですね、親子は」
その言葉に、ふと目が合う。そして再びの沈黙。もう、お互いに今更知らんぷりは出来ない。そういう緊張感が漂っていた。
「ただいまー」
玄関の方から聞こえてきた声に、二人は同時に振り向いた。こういうタイミングが一致することが何だかすごく嫌になる。
二人のいるリビングに顔を出したのは、まぎれもなく彼女だった。
「あっ、間に合ってよかった!ごめんなさい、仕事で――」
「・・・」
「・・・」
馨は小田桐を凝視している。真田は眉をひそめてうなだれた。小田桐は一気に高校時代の記憶が戻る。
「・・・、も、もしかして」
「ああ、・・・久しぶり」
「お、小田桐君」
「変わらないな、君は」
かくして、生徒抜きの「三者面談」が始まった。
・・・
変わらないな、と言ったのは本音だし嘘でもある。
ずいぶん変わった。もう僕の知っている彼女じゃない。それは少しさみしかったが、文句なしに綺麗だった。
ただその笑顔はちっとも変わらない。それが少し嬉しかった。
そんな複雑な気持ちのまま、目の前の真田に目をやると、少しの動揺がうかがえた。こんな状況は予想外だったのだろう。
家庭訪問の日に自分が非番。しかし前日は帰れず、結局帰宅したのが当日、ギリギリの時間でスーツのまま。
妻はいつも通り仕事。しかしどういうわけか早く帰ってきた。そういえば、彼女は当直明けだった。いくつかの偶然が重なり今に至る。
「・・・馨」
「なに?」
「・・・ここは俺に任せてくれ」
「はあ?」
「いいから、買い物にでも行ってきてくれ」
「なんで?せっかく家庭訪問に来てくれたのに、失礼じゃない」
「どっちかいればいいだろ」
「いえ、出来ればご両親揃っていれば話がスムーズです」
「ほらね」
「・・・」
真田の顔はさっきよりも険しくなっている。小田桐はなるべく平静を保ってすました顔をする。
馨はそそくさとコーヒーを入れ始めた。三者三様の心持ちである。
真田としては、かつての恋敵をわざわざ自分の愛妻に会わせたくない。
いい歳をして幼稚な嫉妬かもしれないが、嫌なものは嫌だ。3人の手元にコーヒーカップが行き渡ったところで、面談は再開した。
「それで、どこまで話したんですか?」
「護君の成績と素行についてです」
「それはもう俺が聞いた。終わりだろ?帰っていただいて構わない」
「ちょっと、明彦そんな言い方」
「いえ、これから学校の方針の説明を」
「・・・」
「はい!お願いします」
長いようで短い30分、無事に、かどうかはそれぞれ感じ方が違うが、家庭訪問は終了した。
荷物をまとめ席を立つ小田桐に、馨は声をかけた。
「そうだ、小田桐君、今日はこれで終わり?」
「ああ、ここが最後だ」
「なら夕食食べていかない?」
馨にとっては当然の提案、真田にとっては最悪の提案。彼は思わず声を上げた。
「なっ、馬鹿、何言ってんだ」
「あ、やっぱり忙しい?明日の準備とか」
「いや、ありがとう。ご馳走になるよ」
「本当?えと、じゃあそろそろ結と護も帰ってくるし、急いで準備するね」
空になったコーヒーカップを持って、馨はキッチンへ消えた。
再び二人きりになったリビングは一気に空気が重くなる。
「・・・彼女は綺麗になったな」
「・・・」
「もともとだが」
「・・・」
「そんな顔をするな」
「笑えるか、こんな状況で」
「いざとなったら僕を逮捕起訴して刑務所に入れるくらい、今の君ならできるだろ」
「そんな権限は俺にはない。誰にもだ」
「そうか」
その日は一人増えただけなのに、ずいぶん賑やかな食卓になった。
護は担任を前にして少し気まずそうに、高校生の結は小田桐からいろいろな話を聞いた。
馨はそんな光景を楽しそうに眺め、真田はけげんな表情のままさっさと食事を済ませた。
長い長い、一日だった。
2011/12/29
小田桐君は永遠に明彦のライバルでいいと思うんだよね。