ロビンソン 〜THINK ABOUT MY DAUGHTER〜
私――真田結は、俗にいう「中流家庭で不自由なく育った普通の女の子」だ。
パパは警察官で、よくわかんないけど「偉い人」だっていうのが小さいころからの私の認識。
パパはあまり仕事の話はしたがらない。
キャリアとノンキャリの違いも私にはどうでもよかった。
ただ私の家はそれなりの場所にあるそれなりのマンションで、それを当たり前のように思っていた。
それなりのマンションであるはずなのに、なぜか狭い。新築できれいでセキュリティーも設備もほぼ最新なのに、正直家族4人で住むには狭かった。
食事をするダイニングテーブルは4人分の料理を乗せると隙間なくいつもギリギリだし、椅子に座るとその後ろを通るのにも一苦労。
小学生の頃、同じようなマンションに住む友達の家に遊びに行ったとき、うちとの間取りの違いに驚いた。
その子のパパは医者だった。ママも弁護士という「それなり」の家庭だ。その子の家は桁違いに広くて、それなのに彼女はいつもさみしげだった。
パパもママもあまり帰らないのに、こんなに広い家意味ないよ。その子の言葉が、今も頭に残っている。
それから考えるようになった。「それなり」の暮らしをしている子は、その分足りないものがある。親からの愛情だったり躾だったり。
うちの間取りが狭いのを、パパにそれとなく聞いてみたことがある。そしたらパパはこう言った。
「無駄に広いと落ち着かないだろ」
なぜか笑っていた。隣にいたママも同じように。今思えば、狭ければ狭いほど家族が近づける配慮だったんだと思う。
「それなり」の暮らしをしている私には、他の子のように足りないと思ったものなんて一つもなかった。
パパとママは忙しいけれどゴハンは必ず4人で食べた。入学式にも参観日にも、運動会にも必ず来てくれたし、勉強ができれば褒めてもくれた。
悪いことをすれば怒ってくれるし、私の話を最後まで聞いてくれた。
だから私は家族が大好きだった。そしてそのまま中学校に上がった。
・・・
私と弟の護は、パパとママの本当の子供だけど、おじいちゃんとおばあちゃん――パパの両親はそうじゃなかった。
皆には祖父母は4人いるけど、うちには2人だけだった。ママの両親はとっくの昔に、それこそママが私より小さいときに亡くなった。
何度かパパの実家(すごく広かった)に行ったことがあったけど、どこかパパは他人行儀だった。
養子と里親という関係は、私が想像するには重すぎた。それでもパパは、久しぶりに会う「両親」に感謝しているようだった。
中学に上がって、周りの友達は自分の両親を執拗にうっとおしがった。反抗期って、自分じゃわからない。
話題はいつも決まって家の愚痴だ。何のために塾に行かせているだの、何があんたのためよ、だのって。
そんな中で、私は両親とも大好きだなんて言えなかった。
ある時から、自分が急に情けなく、恥ずかしく思えてきた。
パパもママも、私と同い年の時に、果たして私と同じように幸せだったろうか?答えは否としか思えない。
家族がもともといない。いたのにいなくなった。一人になった。そうして二人とも生きてきた。そんな感情を、想像するだけ涙が出そうなのに。
私は本当に何一つ不満なんて感じずに、幸せに包まれている。甘やかされているわけでもない。放任されているわけでもない。
正体不明の自責の念に駆られて、眠れない日が続いた。
きっかけはなんでもよかった。
家に帰る日がだんだん遅くなった。ママはすぐにそれに気づいたけど、私は何も言わなかった。家の中での口数が驚くほど減った。
ある日、ついに午前0時を過ぎてしまった。中学生が制服姿のまま、外にいる時間じゃない。
家出してるとか、そういう自覚はなかった。同じように――理由はどうあれ家に帰りたくない友達と一緒に街を歩いた。
けどやっぱりその子は途中で家に帰って、私は一人になった。駅前の繁華街はこの時間でも人が多い。夜なのに明るい。
噴水のベンチの前で、どうしようもなくなって体を丸めて膝に顔をうずめた。
それからどれくらい経ったのかわからない。顔を上げると、制服を着た警察官が一人、立っていた。
体格のいい強面で、帽子に半分隠れたその瞳は鋭かった。彼は私の隣に腰を下ろすと、「君、いくつだ」と低い声で言った。
私は正直に答える。
「・・・14歳」
「18歳未満の青少年の深夜徘徊は条例で禁止されている。知ってるか?」
「知ってる。私のパパも警察官なの」
「・・・そうか」
その人は一瞬だけ目を細めて、立ち上がった。私も同じように腰を上げる。きっと抵抗しても無駄だってこと、やってもないのにわかっていた。
私はその人の名前を聞いた。その前に名乗った。小さいころからの癖だ。
「君は律儀でいい子だ、結。俺は黒沢という」
「きっとパパに似たの」
「なるほど」
ゆっくり、本当にゆっくり。黒沢さんは私の歩幅に合わせて、近くの交番まで連れて行ってくれた。
交番には誰もいなかった。初めて入るそこは思ったよりも広くて、初めて見るものがたくさんあった。
「さて、父親には言えないことがあるなら俺に話すといい」
手際よく暖房を入れてくれて、上着までかけてくれて(きっと彼の)、コーヒーまでいれてくれた。
きっぱりした話し方は少しパパに似ている。
「黒沢さんて紳士だね」
「もう50近いオッサンだ」
「うそ!見えないよ」
「世辞にしか聞こえんな」
呆れたようにそう言う黒沢さんがおかしくて、私はつい口元を緩める。
この時思った。こんな風に笑ったのはすごく久しぶりだ。
顔がひきつる。同時に少し後悔した。
「パパ心配してるよね」
「そうだな」
「きっとママも、弟も」
「そうだろう」
「でもね、」
手の中で温めていたコーヒーカップに、涙が一滴落ちた。止めることはできなかった。
「昔のパパとママには・・・こうやって心配してくれる人はいなかったの」
精神的にも経験的にも未熟な私には、それがとてもつらく、ほぼ思い込みに近かった。
「わがままを言いたくても言えなかったんだと思う。私はこんなに大事にされてるのに、・・・おかしいよね」
黒沢さんは何も言わなかった。私の鼻をすする音だけが室内に響く。同時にけたたましく机の上の電話が鳴った。
すかさず彼は受話器を取る。
少し話した後、黒沢さんの口調が少し変わったのがわかった。
「・・・まさかおまえだとは」
口元は薄く笑みが浮かんでいる。
「大丈夫だ。俺が保護した。今駅前の交番だ・・・早く来い」
その言葉に心臓が飛び跳ねた。黒沢さんは帽子に半分隠れた瞳を私に向けた。
受話器から漏れてきた声は、紛れもなく。「俺の娘だ」と焦った声の、パパだった。
・・・
それから10分もしないうちに、交番のドアは壊れそうな勢いで開かれた。
息を切らせて、パパが立っていた。顔は、そらせなかった。
「・・・、ゆ」
パパが私の名前を呼ぼうとしたとき、その脇からママが早足でこちらにやってくる。
私の前で止まったかと思うと、頬を叩かれた。一瞬の痛み。視点が定まると、鈍い痛みが続いた。
パパの後ろに護がいるのもわかった。二人は豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「明彦は優しすぎるのよ」
パパの方を振り返ってそう言ったママの顔は、初めて見る表情だった。でもすぐに和らいだ。
それを合図にしたように、パパは距離を縮めて私を抱きしめた。
スーツのままで、赤いネクタイが私の口元に押し付けられて、視界は真っ暗になる。
パパの手は震えていた。
黒沢さんとパパは知り合いのようだった。
二人が立ち話をしている間、やっぱり私たちのほか誰もいない交番の中で、ママは私の頬を撫でる。思えば殴られたのは初めてだった。
「心配したんだから」
「・・・」
「話したくなければそれでもいいけど、もうこういうのはダメよ」
「・・・うん」
「明彦が大変だったんだから」
「え」
思わず顔を上げると、ママは困ったように笑ってパパの方を見る。
「顔面蒼白になりながら、都内の全部のパトカーに自分で無線流したのよ、俺の娘を探してくれって」
「・・・」
「特徴が主観的すぎて今思うと手掛かりにすらならなかった」
「ど、どんな?」
「ふわふわの癖毛、栗毛色の髪のツインテールで、色白で、瞳は珍しい緋色で、とにかくかわいいから目立つって言ってたかな」
「・・・」
「普通、特徴って言ったら背丈とか制服とか持ち物とかでしょ?・・・ちゃんとパパに謝りなさいよ」
「うん・・・」
さっきの続きのように、涙がすぐにあふれ出た。
帰り際、黒沢さんは私を引き留めた。パパとママに聞こえないように、腰をかがめて耳打ちされる。
「俺はあの二人を昔から知ってる。それこそずいぶん昔だ」
「えっ」
「お互いどうしようもない絶望を感じていたのは確かだが、昔は昔だ。今と未来が幸せなら、それでいいんじゃないか」
「・・・」
「それに、」
黒沢さんは思い出し笑いをするようにこう付け加えた。
「昔は昔で、楽しげだったがな、あいつら」
3年後
「パパが行くのはやめた方がいいと思うよ」
私は高校生になっていた。
今朝は弟の護の参観日について何やらもめている。パパが行くという。護は嫌がっている。
だから私も慌ただしく部屋の中を往復しながらも弟に加担した。
「だって、何人か引っかけてきそうだもん」
変わらず私は家族が大好きだった。あの頃より、少しは大人になれたと思う。
いつも通りの時間に家を出るパパを、慌てて追いかけた。エレベーターの前で追いついて腕にしがみつく。
どんなに不意を突いても、パパがよろけたりすることは一度もなかった。
「待って!一緒に行こ!」
「一緒にって・・・おまえ、俺は車で」
「乗せてって」
「だーめーだ。高校生は歩け!ただでさえおまえは運動不足だろ。
あれほど運動部に入れと・・・いいか、今のうちにトレーニングの習慣をつけないと、二十歳を過ぎたら筋肉は衰える一方」
「ちょっとでも長くパパといたいのに」
「・・・おまえ馨に似てきたな」
「そう?ほんと?」
「軽い気持ちでそういうことを男に言うんじゃないぞ、あと彼氏でもない奴にこういう風にくっついたらダメだ」
「はぁい」
「返事はしっかりしろ」
「はいはい」
「それなり」の暮らしをしてきた私にこれから先、どんなつらいことがあるのかわからない。
けれどこんなパパとママの娘なら――何があっても乗り越えられると思う。