「一応礼言っとくよ。・・・ありがと」






つづれ織り 08






まず彼女を抱き上げたときに、こう思った。
――こんなに軽いんだ、女の子って。
でも、人間としてちょっと軽すぎじゃないか?

そして、こうも思った。
――いい匂いがする。
今までは分からなかったが、香水をつけているようだ。

しかし今はそんなことをのんきに考えている場合じゃない。
どんなにムカつく女であろうと、いきなり目の前で倒れて
しかもこんなに苦しそうで
それこそ、何かの発作のような――・・・


オレは元陸上部だった。
だから足には自信があった。
しかし1階の一番西側にある保健室まで彼女をおぶって全力疾走するだけで、足に力が入らなくなった。
・・・情けない。

すぐに救急車がやってきた。
なにがなんだかわからないまま彼女は運ばれていった。

もうすっかり日は暮れていた。
オレは一人、とぼとぼと帰った。



昨日は金曜日で、今日は休みだった。
時計を見ると、9時過ぎ。そろそろ起きよう。

そう思っていたときだった。

「おーいリン、お客さんだぞ」
1階から、親父の声が聞こえた。

お客さん。
こんな朝早くから。
・・・誰だろう。

起きたばっかりで髪はぐちゃぐちゃで、スウェットのままだったけど、とりあえず玄関へいってみた。

3日連続でこの顔を見るとは思わなかった。
「――・・・」

玄関のドアの前に立っていたのは、彼女だった。
「えー・・・と」

わけがわからなかった。
わけがわからないまま彼女に外に連れ出された。

オレ、こんな格好なんだけど。
しかし彼女は「どうでもいい」と言った。


うちのあい向かいにある、小さな公園。
小さい頃、ここでよく遊んだ記憶がある。
来るのは久しぶりだ。

連れ出されたのはいいものの、彼女はなにもしゃべらない。
なんだか気まずい空気。

「あの・・・なんでオレんちわかったの?」
保健室の先生に聞いた。
「昨日・・・大丈夫だったの?」
・・・。

こいつは一体
何がしたいんだ?

「礼」
「え?」
「昨日の礼。言いにきただけだから」

これまで下を向いていた彼女が、まっすぐオレを見た。
「あんたのこと嫌いだけど・・・一応礼言っとくよ。――ありがと」

助けられっぱなしは嫌だから。

そう言うと彼女は小走りで去っていった。

オレはしばらくそこに立ち尽くしていた。
3日連続であの顔を見るとは思わなかった。

きっとしばらく頭から離れない。






月曜日。今日は学校。朝食を食べて、仕度をして。
バッグの中身を確認するときだった。

「・・・・・・・あ」
くしゃくしゃになった楽譜。
返しそびれた。

「・・・しょーがねーな」



昼休み。
音楽室へ向かう。
別に会いにいったわけじゃない。
楽譜を置きに行くだけだ。
これをもってるとどうもややこしいことになる。

いるとは思わなかった。
でもどこかで、絶対にいるという確信があった。
どうしてそう思うのかわからない。

別に会いたいわけでもないのに。

思いと考えが矛盾してる。

鍵は開いている。
しかしあの日のように、ピアノの音はしない。

なんだか変な気持ちだ。
いてほしかったのか?
あの女に。

そんなことあるわけないのに・・・。

ドアを開けて入ってみると、誰もいない。
しかし奥の準備室へのドアは、少しだけ開いている。

そのままUターンして教室に帰るべきだった。
つーか普通はそうだ。
確認する必要なんかないじゃないか。
あの女がいようがいまいが関係ない。
オレには関係ないのに。

体は準備室へ向かってる。

そして静かにドアを開けた。
ピアノの前に座って、顔を突っ伏して彼女は寝ていた。

なんで
なんでいるんだよ。

一歩、一歩と近づく。
くしゃくしゃになった楽譜を持って。

部屋の窓は開いていた。
部屋を突き抜ける風は少し冷たかった。

そうだ
もう秋なんだ。

その風が、彼女の髪を揺らす。

あんなにムカつく女だけど
こうして寝顔を見ると普通の女の子だ。

「・・・ん」

やばい
起きる・・・

慌てて部屋から出ようと思ったが、もう手遅れだった。

「・・・最近よく会うね」
それが彼女の第一声だった。

なぜだろう
初めて会ったときのとげとげしさはもうなかった。

「これ・・・この前返しそびれたから」
返すチャンスは2回もあった。
そしてこれが3回目。
これで最後になるのだろうか。

「ちょっと・・・くしゃくしゃになっちゃったけど」
そういって彼女の前に楽譜を差し出す。
しかし。

「あたし、あんたに借り作るなんて嫌だから
今返させてよ。貸し借り無しにしたいの」

楽譜には見向きもせず、突っ張った口調でそう言った。

「・・・ピアノ」
「え?」

「じゃあピアノ弾いてよ」

彼女は驚いたようにオレを見ている。
なんてことを言ってしまったんだと
気が付いた。
けどこの口は止まらない。

「オレだってあんたのこと嫌いだけど、あんたの弾くピアノ好きだから。・・・あの時弾いてた曲聞かせてよ」

アンタのこと嫌いだけど。
強調した。
じゃないと、なんだか気があるみたいだ。


「・・・あんた変わってるね」
そう言うと、彼女は笑った。
初めて笑った。
そして彼女はピアノを弾き始めた。

ああ、やっぱり
心地いい。

ピアノを弾いている彼女は、目を閉じていた。
この前もそうだった。

綺麗だと思ってしまうのは
ピアノの音色なのか
それともピアノを弾くこいつなのか。

どっちだか
わからなくなってきた。

ふと
予鈴がなった。
オレも彼女も、現実に戻される。

沈黙が痛い。

「じゃあ・・・ありがと。はい、楽譜」

もうこれで終わりだと
そういう意をこめて楽譜を差し出した。

彼女はじっと楽譜を見つめて
一瞬

目を細めて、寂しそうな顔をした。
オレはそれを見逃さなかった。

「やっぱ返さない」
「え?」

「やっぱりアンタには貸しつくったままにしとくよ」

踵を翻して、音楽室を後にした。
オレの顔は真っ赤だった。













「〜っ、はあ〜」
5限は数学。
一番眠くなる時間。

「なんだよリン、大きいため息ついて」
隣の席のノアが、眠くてしょうがない、という感じであくびをしながら言う。
「ノア・・・オレ、おかしくなっちまったみたいだ」
頭を抱えて
下を向いて
机に顔を押し付ける。


「いつもクールなおまえがなに動揺してんだよ。ほんとにどーしたんだよ?」
ノアの言うとおり
オレはあまり物事に動じないし
基本おとなしいから、周りにはクールな奴だと思われてる。

「あのムカつく女に恋しちゃったみたいだ・・・・」

「・・・この前いってた・・・”ムカつく女”?」
「ああ・・・」

なんだか急に恥かしくなってきて
更に頭を抱える。

オレだってまだ分からない。
でも
なんだかもやもやする。


「リンに春がやってきた・・・」
ノアは笑って、オレの肩を軽くたたいた。




次の日の昼休み。
オレは音楽室に行くか行くまいか迷っていた。
音楽室のある4階の階段の踊り場で
ずっと迷っていた。



今日もいるとは限らない。
もしいたとして、オレ、ストーカーみたいだ。


「アンタなにしてんの?」
後ろから声をかけられる。
驚いた。

彼女だった。


「いや・・・トイレに」
「わざわざ4階の?」

「次の授業4階だし、ついでに・・・」
「4階は音楽室しかないし・・・次の授業は3年だけど」
「・・・・」


うわ
オレ
かっこわるい。


「・・・そういうそっちはなんでここにいるんだよ」
ささやかな反撃。
しかし彼女はかろやかにかわす。
「だって昼休みはいつもピアノ弾きに来てるし」

ああ・・・そうですよね。


「まあいいや。また聞いてく?」

その言葉に
オレは黙って
少し眉間にしわを寄せて
彼女についていった。


「ねえあんた、名前は?」
準備室の窓を開けながら、彼女は聞いた。
「リン」

風とともにふわりと甘い匂いが漂ってくる。
彼女の香水。
なんだか調子が狂う。

「1年生でしょ?」
「・・・そういうそっちは?」

「3年生」
「・・・マジで?」

年上だとは
思わなかった・・・。

「名前。教えてよ」
フェアじゃないだろ。

そう付け加えて。


名前は「ケイト」だと言って、
「この前はぶつかってゴメンね」と、素直に謝ってきた。


本当に
調子が狂う。








それから毎日
昼休みにはケイトに会いに行った。
明日も来る、とか
そういう約束は一切しない。
けれど
必ずケイトは音楽室にいたし、
オレも必ず音楽室へ行った。

いろんなことをしゃべった。
ケイトはピアノの前に座って
オレは窓の傍にもたれかかって――


ケイトはよく笑ってくれた。
初めて会ったときのあの顔が嘘のように。
オレも笑った。

楽しかった。










ある日突然
ケイトが来なくなった。

次の日も
その次の日も
ケイトは来なかった。

かすかな香水の残り香が漂う音楽準備室。
一人で居ても
むなしいだけだった。


これで終わりにするつもりはなかった。
諦め切れなかった。


3年生の教室の階まで行って、見ず知らずの先輩に聞いて回った。
みんな、ケイトを知ってる人はいなかった。

そして、こんなことを聞いた。
「ケイト?・・・ああ、うちのクラスだよ。でも・・・あんま学校来てないよ。なんだっけ、あいつ・・・確か、――」

体が弱くて
入退院を繰り返していると
その先輩は教えてくれた。


そもそもオレが学校で初めてケイトと会ったとき
ケイトは倒れたんだ。

なんで
忘れてたんだ。


ケイトと過ごす時間があまりに楽しくて
あって欲しくない現実を
忘れたかったのかもしれない。




オレはその日学校を休んだ。
電車に乗って
隣町の総合病院へ向かった。

そこにケイトがいるという確信はなかった。





親父と母さんが出逢ったのは
運命だと
オレは思う。


もしここで偶然にもケイトと会うことができたら
それは運命だと
オレは信じる。


「・・・・リン」
後ろから聞こえた
聞きなれた声。

騒がしい院内の廊下。
行き交う医者や患者。

振り向くと、その中にケイトは立っていた。

なんでいるの、と
言いたげな瞳。
パジャマ姿で
なんだか
やせてしまったようだ。


オレとケイトの距離は数十メートル。
ケイトとの距離を一歩一歩縮めていく。

そして
触れられる距離。

ケイトは
下を見ている。


「ばーーーーか」

ケイトの頭に、ぽすん、と手を置く。
ケイトは顔をあげた。

「勝手にいなくなんな。オレはまだケイトに・・・借り返してもらってないんだから」

「やっぱりアンタには貸しつくったままにしとくよ」

この言葉を
君は覚えているだろうか?

「楽譜返さなかったのは、オレがケイトとのつながり、なくしたくなかったからだよ」

ケイトは今まで見たこともないような顔で
泣いた。








今日はいい天気だった。
でもやっぱり冬が近いせいか
少し寒かった。


病院のベンチに並んで座って、ケイトと話をした。


あたし病気なんだ。
そう言って、ぽつりぽつりと、話してくれた。

学校には、ピアノを弾きに行っていた。
授業なんか受けたって、どうせ役に立たない。

そしたら、ひょっこりリンが現れた。
そしてあたしのピアノを聞いてくれるようになった。

また入院しなければいけなくなった。
――リンに言えなかった。
心配かけたくなくて
知られたくなくて
黙っていなくなった。


医者からは、「複数の病気が併発する、珍しい症例」だと聞かされて
「20歳まで生きられないかもしれない」とも言われた。

それは最近のことではなくて
生まれたときからその運命は決まっていた。

「ほら、見て」と、
ケイトは袖をまくって、腕を見せてくれた。
大きなアザ。

思えば初めて会った時
夏なのに
あんなに暑かったのに
ケイトは長袖を着ていた。

音楽室で会うときも
長袖ばかりだった。

「あたしさー別に・・・いつ死んでもいいと思ってたんだ。
だって・・・いままでふつーに生きてきて、突然そんな病気になったら、そりゃあ死にたくないって思うけど・・・
生まれたときから決まってたんだもん。しょうがないって思うしかないじゃん。
ピアノだって・・・そりゃあ好きだけど、そんなに上手いわけでもないし、プロになりたくても・・・あたしには時間が・・・将来がないんだもん。
でもさ・・・リン」



最初はリンと親しくなる気なんてなかった。
こんな短い人生なのに、友達なんていらなかった。
別れが辛くなるだけだから。
だからわざと突っ張ったように見せて、人を寄せ付けないような格好をしているのに。
なのに。
リンはあたしの中に入り込んでいった。




ケイトはオレの腕を
力強くつかんだ。

「リンと話すようになって・・・リンがあたしのピアノ聞いてくれて・・・、変かな、最近さ・・・」

死にたくないって思うの。

その声は震えていた。


「ねえケイト」

初めてケイトの手を握る。

驚いた。
こんなに小さいなんて。

「・・・これ。今度こそ受け取ってよ」
バッグから取り出したのは
くしゃくしゃの楽譜。

「これ返したら、つながりがなくなるっていう意味じゃないから。
今度はこれ、弾いて欲しい。
オレがずーっと、隣でケイトのピアノ、聞いててあげる」

ケイトは
顔をあげて
オレを見た。

こんなに距離が縮んだのは
初めてだ。

「うれしいけど・・・だって、あたし死んじゃうんだよ?
そんなことしたって・・・リンにはなんのいいこともないんだよ・・・?」

ケイトの青い瞳に
だんだん涙が溢れてきた。

オレは小さく笑って、指で涙を拭う。

「好きだよ」

ケイトは
本当に驚いていた。

あたりまえだ。
お互いがお互いを「嫌い」だとわざわざ言っていたのに

「好き」になるなんて。


オレと一緒にいれば
奇跡だっておこせるよ。


そう言って、ケイトの唇にキスをした。



2008/06/21
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